土曜日, 12月 30, 2006

分かる方は教えてください!

 来年1月2日頃に、ラッセルのホームページに掲載しようと思っていますが、1ケ所わからない表現があります。誰かわかる人がおられたらご教授ください。
 それは、
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB22-130.HTM
 の真ん中より上のあたりの、次の部分です。

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・・・。彼らは、ぼろぼろの服を着、二週間もそってないという無精ひげ(注:'a fortnight's beard' というのは、単に「2週間そってない無精ひげ」ということではなく、慣用句かことわざにでてくる言葉でしょうか? ご存知の方は、メールか電子掲示板で教 えてください。)、・・・
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 原文は、
 On one occasion in Petrograd (as it was called) four scarecrows came to see me, dressed in rags, with a fortnight's beard, filthy nails, and tangled hair. 
 となっています。

 'a fortnight's beard' というのは、慣用句かことわざにでてくる言葉だろうと想像されますが、なんと訳せばよいのでしょうか? 長い間ヒゲをそっていないことを表す「慣用句かことわざの中の表現」だとしても、なぜ2週間なのでしょうか?
 分かる方、よろしくお願いします。

ホームページの更新n.20

 ラッセルの『教育論』の続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/OE02-130.HTM

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 恐怖は、行動だけでなく、感情においても克服されなければならない。しかも、意識された感情だけでなく、無意識の感情においても同様に克服されなければならない。貴族主義的な道徳律を満足させる(だけの)恐怖に対する単なる外面的な勝利は、意識下で働く(作用する)恐怖の衝動を残し、恐怖の申し子として認識されない'邪悪なねじれた反応'を生じさせる。私は、恐怖との結びつきは明白であるところの、「砲弾ショック症(shell shock)」戦争神経症の一つ)のことを考えているわけではない。私は、むしろ、支配階級が支配力を保持しようとするための(手段としての)あの抑圧と残酷さの全体系のことを考えている。
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金曜日, 12月 29, 2006

アリスの世界


 「不思議の国のアリス」(高橋康也訳)を読み、「鏡の国のアリス」(安井泉訳)を読み、今「子供部屋のアリス」を読もうとしている。いずれも公共図書館で借りたもの。(「英語で読むアリス」をだいぶ前に予約しているがまだこない。)
 どちらも大変面白いと思ったが、?、訳がおかしいのか、イラストがおかしいのか、どちらだろうか、と思ったところがいくつかあった。
 「鏡の国のアリス」(高橋訳)から2つご紹介すると、1つは pp.14~15の次のところ。
 
 「・・・。黒の子猫が毛糸玉をあちこちに転がしたので、とうとう毛糸玉は全部ほどけてしまいまし。・・・。そして、黒の子猫と「毛糸玉」を抱えて、ソファーによじ登って・・・」
 → 全てほどけてしまったのなら、もはや毛糸玉ではないはず。
 (自分の訳が一番良いと豪語する)山形浩生訳(朝日出版社刊)を見ると、「・・・それから、子猫と毛糸を持ってソファーによじのぼり・・・」となっていて、「毛糸玉」とは訳してはいない。
 もう1ケ所は、p.62のトゥルイードルダムとトゥイードルディーが「お互いに相手の首に腕をまわして、木の下にたっていました」(高橋訳)と いうところ。しかし、一人が相手の首に腕をまわせば、もう一人は相手の背中に手をやるというのが常識的か? 両方とも相手の首にやろうとすると少しむつか しそう。ちなみに、ジョン・テニエルのイラストでは、一人はやはり相手の「背中に」腕をまわしている。原文はどうなっているのだろうか? 原文はそうなっ ていても、テニエルはそんなこと不自然とばかりに、無視したの? 山形訳でも同じようにお互いの首に腕をまわしており、スソアキコのイラストでも二人と も相手の首に腕をまわして、だきあっている。イラストや絵だったら、騙し絵のように現実にありえないことも描けてしまい、不自然におもわなかったりする が、いかがだろうか?
 
 『子供部屋のアリス』(高橋訳、新書館)の訳者解説で、高橋氏は、次のように書いており、興味深い。

 また、第10章の「きちがいティー・パーティ」でアリスは
 自分でお茶をつぎ、バタつきパンをたべました」の後、
 キャロルは、「もっとも、どこからバタつきパンをとった
 のか、私は知りませんよ」と書いています。なるほど、そ
 ういえば、挿絵にはバタつきパンも皿も書いてありませ
 ん。テニエルが書き忘れたのを、キャロルはからかって
 いるのでしょうか。そうかも知れません。
 とにかく、こんなふうにことばと絵のくいちがいを指摘す
 ることは、それだけでおもしろくて、ちいさな読者をひき
 つけるでしょう。

 ということは、文と挿絵の食い違いは、単なるうっかりではないということでしょうか?

木曜日, 12月 28, 2006

備忘録n.0009


昨夜公共図書館で借りたもの
1)デキゴロトジー・イラストレイティッド(週刊朝日風俗リサーチ特別局+夏目房之介/新潮社版)
2)同上、partII
 *両方とも、若い時に週刊朝日で愛読したもの。
3)Googleのすべて-グーグル全46サービス徹底解剖(Impress, 2006.08)
4)子供部屋のアリス
5)桂枝雀独演会v.5(つる、質屋蔵)
6)同上、v.6(持参金、親子茶屋)

土曜日, 12月 23, 2006

備忘録n.0008



本日公共図書館で借りたもの

1)「鏡の国のアリス」(安井泉・訳、新書館)
* Through the Looking-Glass and What Alice Found There
*ジョン・テニエル画

2)同上(山形浩生・訳、朝日出版社)
*スソ・アキコ絵

3)桂枝雀独演会n.4

火曜日, 12月 19, 2006

ラッセルのホームページの更新n.19

 ラッセルの『教育論』の続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/OE02-110.HTM

 ラッセルは、「理想的な性格を基礎付ける4つの特質」として、活力、勇気、感受性、知性の4つを上げています。自民党のもと幹事長をつとめた山崎拓は、ラッセルを頻繁に引用していますが、特にこの4つの特質が一番多いようです。
 ところで、山崎氏は、第140回衆議院本会議(平成9年1月22日)で、「・・・。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、近代国家が持つべき必須要素として、第一に活力に富むことを挙げています。」と引用しており、個人の理想的な性格を基礎付ける特質」の'活力'が「国家の理想的な性格を基礎付ける特質」になってしまっています。いいかげん!

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 合わさって人間の理想的な性格の基礎を形作ると思われる4つの特質を取り上げてみよう。即ち、活力(Vitality)、勇気(Courage)、感受性(Sensitiveness)、知性(Intelligence)の4つである(右図参照)。このリストは完全であると私は言うつもりはない。しかし、この4つの特質がそなわれば、我々は良い方向に進むことができると、私は考えている。・・・。
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土曜日, 12月 16, 2006

備忘録n.0007


本日公共図書館で借りたもの
①「桂枝雀独演会」n.3(鳴り物;ちしゃ医者;花筏)
*図書館館の相互利用で、大宮市立図書館から取り寄せたもの
②赤瀬川原平『東京ミキサー計画』
③『ネット広告の仕組みと効果がよ~くわかる本』(秀和システム)

水曜日, 12月 13, 2006

ラッセルのホームページの更新n.18

 ラッセルのホームページの続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB22-090.HTM

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・・・。ウィトゲンシュタインは、一時期、非常に宗教的になった。彼の宗教心は非常に高まり、交際相手として、私(=無心論者であるラッセル)はきわめて 邪悪であると、思い始めた。彼は、生計をたてるために、オーストリアの田舎のトラッテンバッハ(Trattenbach)という村の小学校教員になった。 彼は、そこから私に次のような内容の手紙をよく書いてよこした:「トラッテンバッハの人々はとても邪悪です。」 そのような手紙を受け取るたびに、私は、 こう返事をした。「その通りです。人間は全てとても邪悪です。」と。それに対し、彼はこう返事をした。「それは真実です。しかしトラッテンバッハの人間 は、他のどこの地域の人間よりもずっと邪悪です。」 私は、自分の論理的感覚では、そのような命題(注:「トラッテンバッハの人間はいかなる地域の人間よ り邪悪である」という命題)に対し反感を覚えます、と返事をした。(注:論理的にいって、「通常」どこかの地域だけ特別悪人が多いということは言えない し、ありそうもないことであるので、論理学者のウィトゲンシュタインの日頃の主張と異なるのではないか、という皮肉か)。・・・。
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月曜日, 12月 11, 2006

ラッセルのホームページの更新,n.17

 ラッセルの『教育論』の続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/OE02-090.HTM
 
  「美しい日本」をうたい文句にする阿部首相や教育再生会議の「有識者」の方々が、(ラッセルの言う、子供に対する親の愛情の)「拡散した形の愛情」を持っているかどうか疑問です。

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 こういった考察はさておき、子供たちや若者たちは、彼らの幸せを純粋に願う人びとと、彼らを何らかの計画のための原材料(素材)としか考えない人びととの違いを、本能的に感じとる。'性格'も'知性'も、教師に愛情が欠けている場合には、十分に、またのびのびとは発達しないだろう。そうして、この種の愛情は、本質的に言って、子供を'目的'として感じることの中にある。私たちは皆、自分自身についてはこういう感情を抱いている。即ち、私たちは、自分自身にとって良いことを望む(欲する)が、その際、自分自身のために何か良いものを手に入れれば何らかの大きな目的が促進されるという'証拠'をまず最初に見せよといった要求を自分自身に対して行うことはない。愛情ある普通の親は皆、我が子に対し、同様の感情を抱く。親は、--自分自身のために何か欲しがるのとまったく同様に--、自分たちの子供が成長し、頑健で、健康的で、学校でよく勉強することなどを願う。(即ち)そのような事柄で骨を折る時に、自制(自己犠牲)の努力も抽象的な正義の原理も、伴わない。こうした親としての本能は、常に厳密に自分の子供に限定されるわけではない。そうした愛は、拡散した形では、幼い男の子や女の子の良い先生になろうとする人全てに存在するはずである。生徒が成長するにつれて、そうした愛情は次第に重要ではなくなっていく。しかし、そういう愛情を持っている人びとに対してのみ、教育の青写真を作ることを信頼して任せることができる。(国家のために)とるに足らない理由で喜んで人を殺したり殺されたりする男を作ることが男子教育の目的の一つだと考えている人びと(注:愛国心教育や国防教育を最重要視する人々)は、明らかに、拡散した形での親の愛情に欠けている。しかも、デンマークと中国を除くすべての文明国においては、こういった人たちが教育を支配(統制管理)している

日曜日, 12月 10, 2006

備忘録n.0006

昨日図書館で借りた本
1)「不思議の国のアリス」(ルイス・キャロル作、アーサ・ラッカム絵、高橋康也訳)
2) 同上(トーベ・ヤンソン絵、村山由佳訳)
3)「定番・朝めし自慢」(出井邦子・『サライ』編集部編)
4)「新世紀版・朝めし自慢(同上)

 『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロル(本名=チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン:オックスフォード大学の数学教師にして牧師)は、多くの少女にラブレターを出す、'あぶないおじさん'だったという人もいれば、そのような「俗説は、近年の研究できっぱり否定されている」(=村山由佳)という人もいる。

(追記:12/3に借りたもの:桂枝雀独演会第1集(寝床・八五郎坊主)

金曜日, 12月 08, 2006

ラッセルのホームページの更新n.16

 ラッセルの『教育論』の続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/OE02-080.HTM

 自由な国であるはずのアメリカが、意外に自由ではない。

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 スペインとポルトガルは別として、西欧諸国全体を通して、'神学上の迷信'はアメリカよりも少ない(例:アメリカのキリスト教原理主義者、ダーウィンの進化論を信ぜずに神による創造を信じる人々、その他)。ほとんど全てのヨーロッパ諸国では、アメリカほど個人が集団に支配されることはない(→大衆化社会)。即ち、政治的な自由が(アメリカより)少ないところでさえ、個人の精神的な自由はアメリカよりも大きい(→画一化社会アメリカ)。以上の点でアメリカの公立学校は害をなしている。この害は、排他的なアメリカ的愛国心教育には、必ずつくまとうものである。この害は、日本人やイエズス会士の場合同様、生徒を目的そのものと見ずに、目的に対する手段と見ることに起因している。教師は、子供を国家や教会よりも愛さなければならない。さもなければ、理想的な教師とはいえない。

日曜日, 12月 03, 2006

ラッセルのホームページの更新n.15

 ラッセルの『自叙伝』の続きです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB22-080.HTM

 ・・・・。そうして、丁度休戦の日と同じ頃に、彼の父親は亡くなり、ウィトゲンシュタインは父親の財産の大部分を相続した。しかし、彼は、哲学者にとって財産は'じゃまなもの(無益なもの)’であるとの結論に達し、全額を弟と妹にあげてしまった。その結果、彼は、ウィーンからハーグまでの乗車賃(汽車賃)を払うことができなくなった。しかも、彼は非常に誇りが高く、そのお金を私からもらうことは自尊心が許さなかった。(しかし)ついに、この困難の解決法が見つかった。彼がケンブリッジ大学にいた時に所有していた家具や書籍がまだケンブリッジに置かれており、それを私に譲渡してもいいと、彼は意志表示をした。私は、彼の家具や書籍を保管していたケンブリッジの業者に、その価格(値打ち)について、助言を求め、そうしてその業者が提示した価格で購入した。それは、実際は、業者が示した価格よりずっと価値のあるものであり、私がかつて行った最良の'お買い得品'であった。この取引によって、ウィトゲンシュタインはハーグにやって来ることが可能となり、ハーグで私たちは、一週間、彼の本の一行一行について議論して過ごした。

土曜日, 12月 02, 2006

ラッセルのホームページの更新情報n.0014


 このたび、ラッセルのホームページで新しいシリーズ(一文格言集 one sentence axiom?)をはじめました。格言集は大体一文(ワンテンス)になっていますので、「一文格言集」というのはおかしいかもしれませんが、ラッセルの他の長い引用と区別したいと思います。(なお一文格言集は、トップページに掲載します。)
 第1回目は、ラッセルの『幸福論』からの引用です。
  http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/index.htm

 [一文格言集(one sentence axiom)n.0001]

 人びとが不幸なあまりに、日中(の光)のまぶしさに耐え続けるよりも(現実を耐え続けるより)、'相互殺戮'のほうが恐ろしくないと思われるうちは、戦争を回避するための(組織的な)方法を発見する機会はない。(出典 source
(富める国と貧しい国/過度の自由競争賛美/個人の幸福よりも美しい国(愛国心)を強調/★相互殺戮(jolly))

金曜日, 12月 01, 2006

ラッセルのホームページ更新情報n.0013

 ラッセルの『自叙伝』の続きです。  
 ウィトゲンシュタインが、夜遅く、ケンブリッジ大学のラッセルの居室を、野獣のように歩き回る、有名なシーンです。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB22-070.HTM


 彼は、毎晩のように深夜、私に会いにやってきて、興奮しているが何も言わず、野獣のように、3時間、部屋の中を行ったり来たりした。ある時私は彼にこう言った。「あなたは、論理学について考えているのか、それとも自分自身の罪について考えているのか?」「両方です」と彼は答えた。そうして、彼はなおも行ったり来たりした。私は彼にもう就寝する時間だと言いたくなかった。というのは、私のそばを離れると、彼は'自殺'するかもしれないと、私にも彼にも、思われたからである。トリニティ・カレッジに来てからの最初の学期の終わりに、彼は私のところにやって来てこう言った。「あなたは、私のことをまったくの'馬鹿'だと考えていますか?」 私は答えた。「どうしてあなたはそのようなことを知りたがるのですか?」 彼は答えた。「もしそうだとしたら、私は飛行士になります。もしそうでなかったら哲学者になります。」 そこで私は彼にこう言った。「そうですねえ、あなたがまったくの馬鹿かどうか、私にはわかりません。しかし、もしあなたが休暇中に、あなたが興味を持つ哲学上の問題について論文を書いてくれたら、それを読み、あなたが馬鹿かどうかをあなたに言いましょう。」 彼はその通りにした。そしてその論文を次の学期の初めに私のところにもって来た。私はその'最初の一文'を読むや否や彼が'天才'であることを確信するにいたった。そして、彼はどんなことがあっても飛行士になるべきではないと納得させた。( He used to come to see me every evening at midnight, and pace up and down my room like a wild beast for three hours in agitatated silence. Once I said to him: 'Are you thinking about logic or about your sins? 'Both', he replied, and continued his pacing. I did not like to suggest that it was time for bed, as it seemed probable both to him and me that on leaving me he would commit suicide. At the end of his frrst term at Trinity, he came to me and said: 'Do you think I am an absolute idiot?' I said : 'Why do you want to know?' He replied : 'Because if I am I shall become an aeronaut, but if I am not I shall become a philosopher.' I said to him: 'My dear fellow, I don't know whether you are an absolute idiot or not, but if you will write me an essay during the vacation upon any philosophical topic that interests you. I will read it and tell you.' He did so, and brought it to me at the beginning of the next term. As soon as I read the first sentence, I became persuaded that he was a man of genius, and assured him that he should on no account become an aeronaut.)