tag:blogger.com,1999:blog-370408002024-03-13T22:59:23.644+09:00russell-j web log(ラッセルのポータルサイト用ブログ)バートランド・ラッセルのポータルサイト用ブログ[哲学者ラッセル関係用ブログ(例:『ラッセル幸福論』、『ラッセル自伝』等)+一般用ブログ(例:ラッセルに関係しない読書記録、備忘録等)]
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.comBlogger271125tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-1499525166925701752015-09-29T14:13:00.001+09:002015-10-23T17:19:12.322+09:00<b>★ ピーター・F・ドラッカー(著)上田惇生(訳)『(新訳)新しい現実-政治,経済,ビジネス,社会,世界観はどう変わるか』(ダイヤモンド社,2004年1月刊/ドラッカー選書n.10)(2015.9.29)</b><br>
* P. F. ドラッカー(Peter, F. Drucker, 1909~2005):米国の著名な経営学者。<br>
* 原著:The New Realities, by P. F. Drucker, 1989.<br>
<p>
次にご紹介する文章(ちょうど一段落分)は,本書(p.296)のなかでは,<b>字下げがされ,引用の形になっている</b>。しかし,どの本からとられたか,本書のどこにも書かれていない。おかしいと思い, <b>Google Books で全文検索したところ、原書では字下げはなく,つまり,この段落は引用ではなく,ドラッカーの地の文であることが判明</b>した。
初版本(初刷り)で,チェックが甘くて出版してしまった,ということならありうることであろうが,本書は,「新訳」となっていることから,それは理由にならず,お粗末である。(M)
===========================================================
コンピュータは、一七世紀末のドゥニ・パパンの時代に始まった機械的な世界という、分析的かつ概念的なプロセスの究極の表現だった。コンピュータは、パパンの同時代人で友人だった数学者ゴツトフリート・ライプニッツの、あらゆる数字はデジタルにつまり1と0によって表現できるという発見に端を発していた。その後、バートランド・ラッセルとアルフレッド・ホワイトヘッドの『数学理論』(1910-1913)【 Principia Mathematica は,ニュートンのプリンキピアにならっており,ラテン語からきていることから『プリンキピア・マテマティカ』と表記するのが標準となっている。あえて訳す場合は『数学原理』とすべきであろう。】が、ライプニッツの発見を論理に発展させた。その結果、あらゆる概念が1と0によって表現できることになった。
============================================================
</p>
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Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-35891240483102292162015-09-20T11:46:00.002+09:002015-10-23T17:19:27.941+09:00(安倍内閣による)新日本国憲法制定★新日本国憲法条文★ (平成*年*月*日制定)<br>
<br>
前文<br>
なし(高邁な理想はないため)<br>
<br>
第1章 主権及び総理大臣の権限・職務 (天皇に関する条文はなし)<br>
<br>
第一条 主権は総理大臣にある。<br>
ニ 憲法改正と同じく、総理大臣は国民投票によって国民の2/3以上の反対がない限りその職を解くことはできない。<br>
<br>
第二条 総理大臣は,議会において最大多数をしめる政党の代表者をもってあて、原則として、選挙ではなく、派閥の調整により、決定し、指名する。<br>
<br>
第三条 総理大臣は、閣議において、自らが任命した各大臣の意見を参考にして、国の重要政策について閣議決定し、決定後1年以内に国会(注:参議院は平成*年*月*日に,必要なしとのことから,参議院自らの決議により廃止された。)に報告しなければならない。<br>
<br>
第四条 総理大臣は,(国政に関する権能だけでなく)軍事に係る統帥権を有する。<br>
<br>
第五条 総理大臣は、日本国の経済的利益(いわゆる国益)拡大のため、また国威発揚のため、毎年50ケ国以上の諸国を訪問し、原発・鉄道・武器等の販売促進のための宣伝に努めなければならない。<br>
<br>
第六条 総理大臣は、友好国(特に米国)の支援を得ながら、左の国事に関する行為を行う。<br>
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること<br>
ニ 国会を招集すること(注:この新憲法の制定後、大相撲にならって、「国会は年5回招集し、それぞれ会期は15日間とする」という規定が、平成×年×月×日付で、新国会法に盛り込まれた。「1年を75日(15×5)で暮らすいい男」という流行語が生まれた。)<br>
三 国会を招集すること<br>
四 衆議院を解散すること(呟き:もう繰り返す必要ないだろうけど、参議院は廃止されてますからね。)<br>
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること(注:新憲法制定後、◯家は,平家同様に繁栄することとなった。平家はその後滅亡したって? いや大丈夫、統帥権は総理大臣にあり、他の勢力はもってないから。平家物語にならって,籾井NHK会長のもと、NHKにより「◯家物語」が放映され、NHKの放送協会賞に選ばれたが、視聴率は1%と、NHKの大河番組史上最低を記録し、費用対効果の悪さでギネス記録に公認されることとなってしまった。)<br>
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。(呟き:だからと言って、お中元やお歳暮はあまり送らないでね。そんなに物をもらってもしょうがないから、現金でお願いね。スイスの隠し口座を必要な方に私設秘書からそっとお教えします。)<br>
七 栄典を授与すること。(呟き:従順な人には叙勲者にエントリーしてあげるよ。それから、総理大臣賞や国民栄誉賞もあげるから、みんな頑張ってね。)<br>
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること<br>
九 外国の大使及び公使を接受すること。(呟き:体調は必ずしもよくないけど、僕健啖家だからね。)<br>
十 儀式を行うこと(呟く:私を応援してくれるアーティストや学識経験者や芸能人は招待してあげるから、応援よろしくね。)<br>
<br>
【以下、総理大臣にかかる規定(ほとんど総理大臣ができることに関するもの)は百条におよぶが、しばる規定は皆無であり、読むに耐えないため省略】<br>
<br>
第二章 国民の権利及び義務<br>
<br>
以下、内容に乏しく、義務教育では実質的に教えられることがなく、大学受験の日本史や政治経済でも教えられることがないと思われることから、省略。<br>
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『ラッセルの言葉366』をアマゾンの電子書籍(Kindle本)として本日(7月26日)
出版しました! 販売価格は,タイトルにちなんで366円にしてあります。
編集ノートに書いたことを以下,転載します。ご購読のほどよろしくお願いしま
す。
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B012IYHZRG/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B012IYHZRG&linkCode=as2&tag=russellj-22">ラッセルの言葉366</a><img src="http://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=russellj-22&l=as2&o=9&a=B012IYHZRG" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
なお,1~3月分及び8月分をサンプルとして下記で無料公開しています。
<a href="http://russell-j.com/R366_CALENDER_TABLE.HTM">http://russell-j.com/R366_CALENDER_TABLE.HTM</a>
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<編集ノートから>
日本だけでなく,世界的な傾向かも知れませんが,著名人の言葉を集めた本が最近
かなり出されています。白鳥春彦(訳・編)『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァ
ー・トゥエンティワン ,2010)が100万部を越えるベストセラーとなったことが影響
しているように思われますが,いろいろな出版社が二匹目のドジョウをねらって,こ
れでもかというほど,いろいろな分野の著名人の言葉を集めたものを出しています。
文学者や詩人の言葉を集めたもの(『超訳 ゲーテの言葉』,『超訳 ヘッセの言
葉』ほか),宗教家の言葉を集めたもの(『超訳 仏陀の言葉』,『超訳 ブッダの
言葉』ほか),科学者の言葉を集めたもの(『アインシュタインの言葉』ほか)・・・
その他多数。タレントまでが参戦するほどです(例:有吉弘行『毒舌訳 哲学者の言葉』)
特に日本人は毒舌家としてのニーチェが好きらしく,ニーチェの言葉を集めた本が
食傷気味になるくらい多数出されています。(『ニーチェ 勇気の言葉』,『ミッキ
ーマウス決断する言葉 ニーチェの強く生きる方法』,『常識なんてにゃんセンス
人生を変えるニーチェの言葉』,『ハローキティのニーチェ 強く生きるために必
要なこと』,『ニーチェ愛の言葉 美女をつくる60の条件』,『日めくりニーチェ』,・・・)
白鳥春彦氏が出されているものには「超訳」というキャッチフレーズ(?)がつけ
られています。そのまま直訳するとわかりにくいので,超訳というスタイルをとり,
わかりやすい言葉で訳出すること自体望ましいことかも知れませんが,少し危険なニ
オイを感じてしまうのは私だけでしょうか?
思想家の言葉は部分的に取り出してみても,たとえ原文もわかりやすい文章であっ
ても,より広い文脈でみないと誤解してしまうことがけっこうあります。理想的には
,読者がわかりやすいように,超訳あるい意訳するとしても,該当の英文をあげるか
,あるいはたとえばネット上に英文(できれば対訳)を置いて,訳文に疑問をもった
読者に原文を参照する手立てを提供することだと思われます。
最近では,原文を添えているものも少しだされていますが,ほとんどが訳文だけと
なっています。私が特に不満に思っているのはその点です。
このたび,『ラッセルの言葉366』を出すにあたって,ごく少数の例外を除いて
,ほとんどのラッセルの言葉(訳文)について、詳細情報にあげたURL(リンク)をク
リックすることによって原文(英文)を閲覧できるようにしました。電子書籍ならで
はの利点です。また,その英文も引用文(訳文)に該当する文章だけでなく,その前
後の文章(英文)も見られるようになっています。いずれも,私が1996年8月8日に開
設したラッセルのポータルサイトに掲載している情報です。
バートランド・ラッセルの研究者及びファンのためのポータルサイト:
http://russell-j.com
ラッセル思想及びラッセルの英語の学習に役立つものと確信しています。
(松下彰良)
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<br />
最初2009年にギリシャで出版され,その後欧米でベストセラーになった、(ラッセルの生涯を下敷きにした)論理学の歴史に関するマンガ本(Logicomix: An Epic Search for Truth)が,筑摩書房から7月23日に邦訳出版される予定です。<br />
<br />
<br />
<b>『ロジ・コミックス: ラッセルとめぐる論理哲学入門 』の出版情報</b><br />
<br />
<TABLE border=1 ALIGN="right" vspace="8" hspace="8">
<TR><TD bgcolor="#FFFF00">
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</TD></TR>
</TABLE>
アポストロス・ドクシアディス 著 クリストス・パパデミトリウ 著<br />
アレコス・パパダトス 画 アニー・ディ・ドンナ 画<br />
松本 剛史 翻訳 / 高村 夏輝 監修<br />
筑摩書房,2015/7/23。 単行本: 352ページ(価格:2916円)<br />
<br />
<b>内容紹介</b><br />
激動の20世紀,偉大な数学者・哲学者達はいかにして真理の探究に駆り立てられたか? 彼らの情熱を追う世界的ベストセラーのオールカラー・グラフィックノベル。<br />
<br />
監修者は高村夏輝氏ですが,訳者は松本剛史(まつもと つよし,1959年 - )という方です。ウィキペディアによれば,松本剛史氏は,「翻訳家。 和歌山市生まれ。東京大学文学部社会学科卒。英米の小説,評論を翻訳」とのことです。<br />
<br />
次のページから予約できます。<br />
<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/448084306X/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=448084306X&linkCode=as2&tag=russellj-22">ロジ・コミックス:</a><br />
ラッセルとめぐる論理哲学入門 (単行本)<br />
<img p="" />src="http://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=russellj-22&l=as2&o=9&a=448084306X"<br />
width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important;<br />
margin:0px !important;" />
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<br />
==================================<br />
以下は,明日,『(ほぼ日刊)ラッセルの言葉366』(メルマガ)で配信する予定のものです。<br />
<a href="http://archive.mag2.com/0001626338/index.html">http://archive.mag2.com/0001626338/index.html</a><br />
前後を含めたものは以下に本日掲載しました。<br />
h<a href="ttp://russell-j.com/beginner/OE11-080.HTM">ttp://russell-j.com/beginner/OE11-080.HTM</a><br />
<br />
要注意な点は、"as well as" の構文ではないことです。<b>"own thoughts as regards the attitude" を一塊ととらえる必要があります。</b>そのようにとらえないと,魚津訳(みすず書房版)や堀訳(角川文庫版のような(「自分の思想をはっきりさせることが必要であるように,親に対するどのような態度を子供たちに期待スべきかについても,はっきりさせておく必要がある」といった)<b>誤訳</b>が生まれてしまいます。<br />
<br />
(原文)<br />
It is <strong>as well</strong> to be clear in<strong> our own thoughts as regards the attitude</strong> we are to expect from children <strong>to</strong> parents. If parents have the right kind of love for their children, the children's response will be just what the parents desire. The children will be pleased when their parents come, and sorry when they go, unless they are absorbed in some agreeable pursuit; they will look to their parents for help in any trouble, physical or mental, that may arise ; they will dare to be adventurous, because they rely upon their parents' protection in the background -- but this feeling will be hardly conscious except in moments of peril. They will expect their parents to answer their questions, resolve their perplexities, and help them in difficult tasks. Most of what their parents do for them will not enter into their consciousness. They will like their parents, not for providing their board and lodging, but for playing with them, showing them how to do new things, and telling them stories about the world. They will gradually realize that their parents love them, but this ought to be accepted as a natural fact. The affection that they feel for their parents will be quite a different kind from that which they feel for other children. The parent must act with reference to the child, but the child must act with reference to himself and the outer world. That is the essential difference. The child has no important function to perform in relation to his parents. His function is to grow in wisdom and stature, and so long as he does so a healthy parental instinct is satisfied.<br />
<br />
(訳例)<br />
親に対してどのような態度を子供に期待すべきかについて,私たちの考えをはっきりさせておくこともまたよいことであろう。親が我が子に対して正しい愛情を持っているならば,子供の反応は,まさに親の望みどおりのものになるだろう。子供たちは --何か楽しい遊びに夢中になっているのでないかぎり-- 親が自分の方にやってくれば喜び,行ってしまえば悲しむ。子供たちは,肉体的なことでも,精神的なことでも,困ったことが生じれば親の助けを求める。即ち,子供たちは,思いきって冒険をしようとするであろうが,それは,背後に親の保護を当てにしているからである。だが,この感情は,危機に陥った瞬間を除いてほとんど意識にのぼってこないであろう。子供たちは,親が自分の質問に答え,子供にとって困難な問題を解決し,骨の折れる仕事を手伝ってくれることを期待している。親が子供のためにしてやることは,大部分,子供にの意識にはのぼらない。子供は,親が好きになるだろうが,それは,食事や住むところを与えてくれるからではなく,いっしょに遊んでくれ,子供にとって目新しい事物のやり方を教えてくれ,世の中のいろんな話をしてくれるからである。子供たちは,両親が自分を愛していることをしだいに理解するだろうが,それは,あたりまえの事実として受け取られなければならない。子供が両親に対して感じる愛情は,よその子供たちに対して感じる愛情とはまったく異なるものであろう。親は子供のこととの関連で(念頭において))行動しなければならないが,子供は自分自身と自分の外の世界との関連で(念頭において)行動しなければならない。ここが本質的に違うところである。子供は,親との関連で果たすべき重要な役割をまったく持っていない。子供の役割は,知恵と身体において成長することであり,子供がそのように成長している限り,健全な親の本能は満足するのである。
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<a href="http://russell-j.sblo.jp/article/126559588.html" target="_blank">http://russell-j.sblo.jp/article/126559588.html </a>)<br />
<br />
地震がほとんどないような国や地域においては,原子力発電は有力なエネルギー確保手段であろうが,自然災害(特に大地震)が多い日本のような国においては、大変リスキーなものとなっている。それでも,政財界で現在権力をもっている人達は,原子力は重要なベース電源であり,「世界一の安全基準」のもと、今後も維持していく必要があるとしている。<br />
しかし,この主張も,福島で起こったことがほかの原発で再度起こり、多数の死者や被害者がでた場合には、原発を擁護した(再開させた)政治家や財界人(電力会社のトップ及び直接の責任者)は死刑または無期懲役になる、ということであれば、そこまで言うのであればと、譲歩する用意はある。しかし,そのような事態が起こったとしても,せいぜい政治の世界から引退したり、役職をしりぞくだけであるならば,つまり厳しい責任をとらないというのであれば、無責任というよりないだろう。<br />
<br />
現在,日本政府は,原発を日本のベース電源として位置づけ,自然エネルギー(22~24%くらい)に続いて2番目の主要電源(20~22%くらいを確保)としている(その心は,22%として同等としたいが、それでも国民の非難が沸き起こるかもしれないので,形だけ自然エネルギー優位にしている?)。<br />
しかし,個々の原発の再開においては,政府が再開を押し付けたと言われるとこまるので,原子力規制委員会の「厳しい」安全審査のもとに,電力会社が自発的(表向きは国民に安価な電力を供給するため)に停止中の原発の再開させる、という姿勢(=たてまえ)をとっている。ところが,電力会社としては、「国からの要請(国策に協力」ということを全面に押し出しており、事故が起こった場合も国からの全面的な支援や救済を期待している。現政府や原発企業は、「世界一の安全基準」のもとに原子力規制委員会の審査をパスできたのであれば、もしも大地震が起こり大事故が起こったとしても「想定外」として扱うことができると内心考えている。 つまり,原発企業も、国も、原子力規制委員会も、いずれも再び大事故が起こったとしても、自分には第一の責任がないか、あるいは三者の共同責任にすることができると踏んでいる。「国が全面的にバックアップ」するといっても、「国民の血税を使います」、と言っているだけであり,結局は国民全体が責任を引き受けるということにすぎない。<br />
<br />
できるだけ自分の方に「実質的な」責任が及んでこないように,言葉を選んでいるが,原発による大事故が起こり、多くの死者がでた場合には、原発を再開させるのに力を注いた政治家や企業経営者(日頃記録にとどめておきましょう。)は終身刑や無期懲役も十分ありうるということがなく,結局は役職を去るだけ(あるいは政治の世界から引退)ということだけであるならば、誰もまともに向き合うことはないだろう。<br />
長い間刑務所にはいるといった,厳しい実刑が担保されないかぎり,今後も、無責任な言動しかしないだろう。<br />
今後、どこで大きな地震が起こるとも限らない(遠い昔に,川内原発のあるところもまで、火砕流が流れた跡があると言われれいる。)日本において原発を維持することは無理であり,「国民に易いの電源を確保するため」,と言い続けるだけの政治家や企業経営者は「不道徳」だと言わざるをえないだろう。<br />
最後に、気になることを少し列挙しておきます。<br />
<br />
========================= <br />
・地表に断層が現れていなくても,地下10~15kmのところに断層があり、それが動くということもあるということ(淡路‥阪神大震災における淡路島の断層?)<br />
・過去200年くらい大きな地震が起こっていない(=実際は記録がないだけ)からと言って安心できないこと。1万年前は中国大陸と日本はつながっており、日本海は大きな湖であったこと、また日本列島全体が東に向かって移動しつつあり,それだけの巨大な力が働いていること。日本列島全体が現在火山活動期に入っているらしいこと(京大の鎌田教授の証言)<br />
・テロによって,運転中の原発が破壊されることがありうること。広島型の原爆であれば、個人がバズーカで発射できるくらいになっていること。いや核兵器などをもちださなくても、強力な爆弾をつんだ小型ロケット(or高性能のドローン!?)をテロリストが原発に打ち込むことはそれほど難しくなさそうである。<br />
・原発維持のかくれた(第一の)目的は防衛のためであり,日本のエネルギー源確保ではなく、原発で生み出される使用済核燃料によって、プルトニュームを確保して、いつでも核兵器をつくれるようにしておくことかもしれない。<br />
==========================<br />
<div>
<br /></div>
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l<a href="http://archive.mag2.com/0001626338/index.html">創刊しました! 『(ほぼ日刊)バートランド・ラッセルの言葉366』</a><br />
<a href="http://archive.mag2.com/0001626338/index.htm">http://archive.mag2.com/0001626338/index.htm</a><br />
<span style="font-family: 'MS Gothic'; font-size: 13px; line-height: 16.899999618530273px; white-space: pre-wrap;"> =====================================</span><br />
<pre style="font-family: 'MS Gothic'; font-size: 13px; line-height: 16.899999618530273px; padding: 0px; white-space: pre-wrap; word-wrap: break-word;"> 戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であ
り,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。
それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因しているこ
とから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。
(出典:ラッセル『幸福論』第4章「退屈と興奮」
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM" style="color: #cc33cc; margin: 0px; padding: 0px; text-decoration: none;">http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM</a>
Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from
boredom; even quarrels with neighbours have been found better than
nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since
at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.
The Conquest of Happiness, 1930.
=====================================</pre>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-1858400514996565852014-01-20T11:25:00.000+09:002015-10-23T17:23:17.231+09:00國分功一郎『暇と退屈の倫理学』におけるラッセル『幸福論』の「誤読」について以下は<br />
<a href="http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2014.html#br2014-2">http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2014.html#br2014-2</a><br />
からの再録です。<br />
<br />
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 』(朝日出版社,2011年10月刊.)(2014.1.19)<br />
* 國分功一郎(こくぶん・こういちろう, 1974~ ):早稲田大学政経学部卒,<br />
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学<br />
経済学部准教授で哲学専攻。<br />
<br />
本書は2011年度の「紀伊國屋じんぶん大賞」を受賞をしており,よく読まれているようです。私も興味深く読むことができました(1度目は速読し,2度目に精読しました)。ただし。ラッセルの著作(ここでは『幸福論』)に関する國分氏の誤解が少なくないように思われます。『暇と退屈の倫理学』の読者も多いことから,その点だけご紹介及びコメントをしておきたいと思います。<br />
<br />
<br />
國分氏は,本書で,ハイデガーの思想,特に「退屈論」(「形而上学の根本概念」)を主な材料として評価・批判しながら自分の考えを順々に説き,著者が重要だと着眼した<暇と退屈の'倫理学'>について詳細に述べています。<br />
ハイデッガーの次に引用が多いのは,ラッセル(の著書)からです(特に本書 pp.49-67)。ただし引用は,『幸福論』のみからであり,本書のテーマに直接関係のある,ラッセルの『怠惰への讃歌』からは皆無です。國分氏は,ラッセルの『幸福論』を評価もしていますが,この本の結論から考えれば,重要なのは批判しているところだと思われますので,ここではその部分についてのみとりあげてみます。<br />
<br />
國分氏は,ラッセルの『幸福論』(あるいはラッセル思想や人間性)について,誤解や思い込み(なかには,意図しない?曲解)が少なくないように思われます。<br />
まず一つ目の誤解(思い込み?)は,ラッセル『幸福論』に出てくる,幸福になるための条件の一つである「熱意」に関する國分氏のコメントです。(ちなみに,國分氏は,p49.で,ラッセルは「ノーベル平和賞を受賞した大知識人」と書いていますが,これはもちろん「ノーベル文学賞」の勘違いです。)<br />
<br />
『暇と退屈の倫理学』の中の該当部分を少し長いですが,抜き出してみます。<br />
(pp.14-30) 序章 「好きなこと」とは何か<br />
<br />
<br />
(p.14) イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は,一九三〇年に『幸福論』という書物を出版し,そのなかでこんなことを述べた(注:下線は,著者の國分氏が引いたもの)。いまの西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し,東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは,若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから・・・。<br />
ラッセルが言っているのは簡単なことである。<br />
二〇世紀初頭のヨーロッパでは,すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。<br />
それに対し,ロシアや東洋諸国では,まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから,若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。だからそこでは若者たちは幸福である。<br />
彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば,そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に,そうしたすばらしい状況にいない人々,打ち込むべき仕事をもたぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。<br />
しかし,何かおかしくないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?<br />
ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは,その社会をよりよいものに,より豊かなものにするためだ。ならば,社会が実際にそうなったのなら,人は喜ばねばならないはずだ。なのに,ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく,より豊かになると,人はやることがなくなって不幸になるというのだ。<br />
もしラッセルの言うことが正しいのなら,これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人は逆に不幸になる。それだったら,社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず,惨めな生活を続けさせておけばいい。なぜと言って,不正をただそうとする営みが実現を見たら,結局人々は不幸になるというのだから。<br />
なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かおかしいのではないか?<br />
そう,ラッセルの述べていることは分からないではない。だが,やはり何かおかしい。そして,これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも,やはりどこかおかしいのである。<br />
ラッセルが主張したように,打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら,この事態はもうどうにもできないことになる。やはり私たちはここで,「何かがおかしい」と思うべきなのだ。<br />
<br />
ラッセルは,このようなこと(特に「打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸である」といったようなこと)は言っていないことは,先入観なしに『幸福論』を読めば,ほとんどの人が理解する思われますが,國分氏はなぜこのように読んでしまう,あるいは読めてしまうのでしょうか?(注:國分氏が好きなドゥルーズが大胆な解釈のためには「誤読」が必要だと述べているようですが,國分氏も「誤読」を気にしないためでしょうか?)<br />
<br />
次のコメントも同様です。<br />
(p.61) 熱意はおそらく幸福と関連している。だが,ラッセルはそこから「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」という結論に至ってしまった。<br />
実際,ラッセルはこの結論の問題点にも気づいていたようにも思われる。彼は熱意の傾けられる道楽や趣味が,大半の場合は根本的な幸福の源泉でなくて,現実からの逃避になっているとも指摘しているからである。<br />
しかもラッセルは,本物の熱意とは,忘却をもとめない熱意であるとも述べている。彼は,「熱意」と見なされる現象が,単に現実から眼をそらす逃避や忘却のための「熱意」でありうる可能性にきづいているのだ。・・・。<br />
「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」などと,ラッセル言っていません。また,「(ラッセルも)気づいていたようにも思われる」ではなく,最初から「熱意」は幸福になるための条件の「一つ」だと言っています。<br />
ラッセルは,幸福になるための積極的条件として,熱意(Zest)だけではなく,愛情(Affection),家族(The family),仕事(Work),及び(外界に対する)非個人的な興味(Impersonal interests)をあげています。また,必要な努力をした後はどうしても達成できないことはあきらめることができること(Effort and resignation)などをあげています。<br />
(下記のページにラッセル『幸福論』の目次をあげてあります。また,この目次経由で,ラッセル『幸福論』を対訳(松下訳)で全て読むことができますので,参照してみてください。<br />
<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/KOFUKU.HTM">http://russell-j.com/beginner/KOFUKU.HTM</a><br />
<br />
國分氏は,この思い込みのもと,さらに次のように書いています。<br />
<br />
(p.62) したがって,当時のヨーロッパの青年たちを,当時のロシアや日本の青年たちと比べるという(ラッセル)の視点そのものが完全にまちがっていると言わねばならない。これは,現代のそれなりに裕福な日本社会を生きる若者を,発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて,「後者の方が幸せだろう」と言うのに等しい。これはまちがっているどころか,倫理的に問題がある。なぜなら,それは不幸への憧れを生み出すからである。<br />
不幸に憧れてはならない。したがって,不幸への憧れを作り出す幸福論はまちがっている。<暇と退屈の倫理学>の構想はこの点に大いに注意せねばならない。<br />
軽い気持ちで,ラッセルが一つの例としてあげた「ロシアの青年の熱意」を針小棒大にとりあげるのはどうでしょうか? ラッセルは,革命直後の(当時の)ロシアの青年は革命に対する熱意から幸福を感じているという「現象面」をとりあげているだけであり(幸福の「質」について客観的評価をしているわけではなく),それ以上でもそれ以下のものでもありません。(因みに,ラッセルは,1920年夏に,英国労働党代表団に随行し,革命直後のロシアを訪問し,帰国後の1922年に The Pracice and Theory of Bolshevism(邦訳書名:『ロシア共産主義』を執筆・出版し、ロシア共産主義に対するするどい批判を行っています。) 國分氏が,独自の<暇と退屈の倫理学>を構築したいのであれば,枝葉末節の記述を拡大解釈したり,針小棒大にとらないように,(國分氏が自ら言っているように)「大いに注意をせねばならない」のではないでしょうか? <br />
<br />
このように「誤読」が多いと,他の著者の著作の引用・紹介も大丈夫だろうかと思われてきます。<br />
<br />
もちろん,ラッセルの書き方にも原因はあります。<br />
ラッセルの著書は,専門的な本(Aグループとします。)と一般向けの本(Bグループとします。/ popular books)の2つのグループに分けることができます。後者はさらに,教養のある知的な一般読者向けの本(B1グループ/『哲学入門』や『西洋哲学史』など)と,そういった制限があまりない一般読者向けの本(B2グループ/『幸福論』や『教育論』など)にわけることができます。<br />
ラッセルは,著書の執筆において,「精確」であること(多義的であいまいにならないこと),読者に誤解を生じさせる余地を与えないことを重要と考え,そのためには文章の流麗さを犠牲にすることも気にしませんでした。<br />
しかし,ラッセルは大学等の定職につくことはあまりなく,主に文筆によって,生計の糧を得て,家族を養っていましたので,B2グループの本の執筆においては,精確さを多少犠牲にして,面白おかしいエピソードやたとえ話をかなり挿入しました(注:既存の組織に定職を持つと言いたいことも言えなくなる恐れがあるため,ラッセルは若い時に,可能な限り,文筆業で生計をたてようと決意をします。ラッセルは貴族で財産がいっぱいあったからではありません。)。そのせいもあり,『結婚論』における「黒人の能力」に関する記述やキリスト「的な」愛(Christian love)の強調等々,たまにではありますが,世界の読者に誤解を与えてしまいました。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM">http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM</a><br />
<br />
ロシア革命前後においてロシアの青年は「熱意」を持つことができて幸福そうだというラッセルがあげた例 --私もあまり良い例だとは思いませんが-- について,,國分氏が,「(ラッセルが)熱意さえあれば幸福であると言っているのは間違いだ」として論じているのはいただけません。ラッセルの『幸福論』を先入観なしで読めば,「熱意」は,ラッセルがあげている,幸福になるための(有力な)条件の,あくまでも「一つ」であり,よほど不注意な読者でなければ,熱意「さえ」あれば幸福になれる,とは読まないと思われます。なぜそのように読んでしまう(読めてしまう)のでしょうか?<br />
<br />
それに,ラッセルの『幸福論』の原書のタイトル The Conquest of Happiness(幸福の「克服」=幸福は棚からボタ餅のように,努力しないで落ちてくるものではなく,克己努力して勝ち得るものだという意味合いを含んだタイトル)にあるように,不幸の原因について徹底的に分析し,処方箋を提示した後に初めて幸福になるための積極的な条件についてふれる,という構成及びアプローチの仕方をとっていることを充分理解していないのではないか,と言いたくなります。<br />
<br />
ラッセルはこの『幸福論』において,戦争や飢餓状態にあるなど,厳しい外的環境の中にいる人ではなく,一応世間一般の平均的な暮らしができる人々で,日常的な不幸に苦しんでいる人たちが,不幸の原因を知り,克服し,幸福になるための処方箋を書いた,とはっきり書いていることも,よく頭に入れておく必要があります。<br />
<br />
それから,次の記述も気になりました。<br />
(p.188) しかし,(ハンナ・アレントによるマルクスのテキストの改ざんについて)アレントを非難しても仕方がない。問題は,「欠乏と外的有用性によって決定される」という文句がアレントの目に入ってこないということだ。もうこうなると,読み間違いの問題ではない。アレントの欲望の問題である。アレントはマルクスのなかに労働廃棄の思想を読み取りたくて仕方ないのである。<br />
國分氏の指摘されるとおりかもしれないですが,しかし,これは「両刃の剣」ではないでしょうか?<br />
即ち,國分氏も,ラッセル『幸福論』の中に,「ラッセルは,熱意さえもてれば人間は幸福になれる」と言っていると「読み取りたくて仕方がなかった」のではないか,と。<br />
<br />
本書(『暇と退屈の倫理学』)の結論のところで,國分氏は次のような批判的なコメントも書いています。<br />
(p.343) ラッセルはこんなことを言っている。「教育は以前,多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。ラッセルがこう述べることの前提にあるのは,楽しむためには準備が不可欠だということ,楽しめるようになるには訓練が必要だということである。・・・。中略・・・。<br />
「楽しむためには訓練が必要だ」と言うと,どうもハイカルチャーのことが想像されてしまうきらいがある。実際,ラッセルは食のような楽しみのことは考えていない。彼は上の引用文に付け加えて,訓練を必要とする楽しみとは,すなわち,「てんで教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである」と述べている。(こういうところがラッセルという哲学者の限界である。)<br />
ラッセルは貴族だからという先入観があるのでしょうか?<br />
ラッセルは単純に,誰でもが素朴に楽しめるもの以外に,訓練や努力によって楽しむことができるようになるものがある,また興味を持てるものが多ければ多いほどその人はより幸福になれる「可能性」が増えると言っているにすぎません。「てんで教養のない人たちには縁のない」などという(國分氏の感情のこもった)表現の中に,偏見や思い込みがプンプン感じられます。<br />
<br />
<br />
あと一つだけにしておきます。<br />
<br />
國分氏は,本書の最後で以下のように書いています。ここに書かれている「労働時間の短縮」及び「余暇(時間)の有効活用」は,ラッセル(著)『怠惰への讃歌』における中心的な主張でもあり,本書でひとことも触れられていないのは残念です(國分氏は読んでいないのではないでしょうか!?)。<br />
(p.356) マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的な条件にあずかることができる社会が作られねばならない。そして,物を受け取り,楽しむことが贅沢であるのなら,暇の「王国」を作るための第一日は,贅沢のなかからこそ始まるのだ。<br />
<br />
最後に,ラッセル『幸福論』から,関係ありそうなところを少し引用しておきます。<br />
私の目的は,文明国の大半の人びとが苦しんでいる普通の日常的な不幸に対して,一つの治療法を提案することにある。そういった不幸は,はっきりした外的原因がないため,逃れようがないように思われるために,それだけ耐えがたいものである。私の信じるところでは,こうした不幸は,大部分,間違った世界観,間違った倫理,間違った生活習慣によるものであり,人間であれ動物であれ,結局はその幸福のすべてがよっているところの実現可能な事柄に対する,あの自然な熱意と欲望を(そういった不幸は)打ちくだいてしまうのである。こういうことは,個人の力でなんとかなる事柄である。そこで,私は人並みの幸運さえあれば,幸福が達成できるような(生活の)改変を提案しようと思う。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA11-020.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA11-020.HTM</a><br />
<br />
私の考えでは,'退屈'は,人間の行動における要因の1つとして,それに値する注意を払われていない(←注目を受けていない)。'退屈'は,有史時代を通じて大きな原動力の一つであったと信ずるが,現代においてもかつて以上にそうである。'退屈'は,人間特有の感情であるように思われる。・・・。 退屈の本質的要素の一つは,現在の状況と,想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。・・・。<br />
'退屈'は,本質的には,事件を望む気持ちのくじかれた状態をいい,事件は必ずしも愉快なものでなくてもよく,'倦怠の犠牲者'にとっては,今日と昨日を区別してくれるような事件であればよい。退屈の反対は,ひと言で言えば,快楽ではなく興奮である。・・・。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM</a><br />
<br />
戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた(←経験して知る)。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM</a><br />
<br />
多少とも単調な生活に耐える能力は,幼少期に獲得されるべきものである。この点で,現代の親たちは大いに責任がある。・・・。<br />
私は,単調さそのものに独自のメリットがあると主張しているわけではない。私はただ,ある種の良いものは,ある程度の単調さのあるところでなければ可能ではない,と言っているにすぎない。・・・。 退屈に耐えられない世代は,小人物の世代,即ち,自然のゆったりした過程から不当に切り離され,生き生きとした衝動が,花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA14-060.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA14-060.HTM</a><br />
<br />
現代の都市に住む人びとが苦しんでいる特別な種類の退屈は,彼らが「大地」の生から切り離されていることと密接に結びついている。そのことによって,生活は,砂漢の中の(孤独な)巡礼のように,暑く,ほこりっぼく,のどのかわくものになっている。自分のライフスタイルを選択できるほど裕福な人々の間において,特に彼らが苦しんでいる耐え難い退屈は,逆説的であるように思われるかもしれないが,退屈への恐れにその原因がある。実りある退屈から逃げることで,別の,より悪い種類の退屈の餌食になってしまう。幸福な生活は,大部分,静かな生活でなければならない。なぜなら,真の喜びは,静かな雰囲気の中でのみ,生きながらえることができるからである。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA14-070.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA14-070.HTM</a><br />
<br />
しかしながら,(一時的な)流行追求や趣味は,多くの場合,多分大部分,根本的な幸福の源泉ではなく,現実からの逃避のための手段になっている。即ち,直視するには大きすぎる苦痛を当面の間忘れるための手段になっている。根本的な幸福は,ほかの何にもまして,人(間)や事物に対する'友好的'な関心とも言うべきものに依存しているのである。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA21-060.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA21-060.HTM</a><br />
<br />
<br />
'幸福な人'とは,(できるだけ先入観を持たず)客観的に生き,自由な愛情と幅広い興味を持ち,またそういう興味と愛情を通して,今度は逆に,他の多くの人びとの興味と愛情の対象になるという事実を通して,自らの幸福を確保する人である。愛情の受け手になることは,幸福になるための有力な原因である。しかし,'愛情を要求する人'は,'愛情が与えられる人'ではない。愛情を受ける人は,大まかに言えば,愛情を与える人である。しかし,利子付きで金を貸すようなやり方で,愛情を打算で(計算づくで)与えようとすることは無益である。なぜなら,計算づくの愛情は本物ではないし,受け手からも本物とは思われないからである。<br />
<a href="http://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM">http://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM</a>
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<br />
====================================<br />
<a href="http://blog.goo.ne.jp/idconsult/e/2f05bd352c449c2b1033ee0d0939872a">http://blog.goo.ne.jp/idconsult/e/2f05bd352c449c2b1033ee0d0939872a</a><br />
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;">HE CHIEF CAUSE OF FAILURE AND UNHAPPINESS IS TRADING WHAT WE WANT MOST FOR WHAT WE WANT IN THE MOMENT</span><br />
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"> BERTRAND RUSSELL</span><br style="background-color: #fafcff; color: #666666; line-height: 20px;" /> <span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;">失敗や不幸の主たる原因。それは我々が本当にしたい事の代わりに、今したい事を(刹那的に) 選んでしまう事にある。バートランド・ラッセル(編集長訳)</span><div>
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"> ====================================</span></div>
<div>
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"><br /></span></div>
<div>
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"> しかし,ラッセルの『幸福論』にもこの言葉はないことから,調べてみたら,「ゲーテの言葉」(ドイツ語を英訳したもの)であることがわかりました。</span></div>
<div>
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"> </span><a href="http://www.worldofquotes.com/author/Johann+Wolfgang+von+Goethe/2/index.html">http://www.worldofquotes.com/author/Johann+Wolfgang+von+Goethe/2/index.html</a></div>
<div>
<br /></div>
<div>
Google で検索すると Bertrand Russell の言葉として紹介しているものが多数ありますが,違いますので、ご注意ください。</div>
<div>
<span style="background-color: #fafcff; color: maroon; line-height: 20px;"><br /></span></div>
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</script>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-35016525484962601602013-12-08T10:11:00.001+09:002015-10-23T17:21:19.771+09:00安倍さん,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます!<div class="post_title" style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); background-color: white; box-sizing: border-box; color: #444444; font-family: 'Helvetica Neue', HelveticaNeue, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 22px; font-weight: bold; line-height: 1.3; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
安倍さん,石原前都知事,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます。猪瀬都知事,法案の成立がもう少し早ければよかったですね。</div>
<div class="post_body" style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); background-color: white; box-sizing: border-box; color: #444444; float: left; font-family: 'Helvetica Neue', HelveticaNeue, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14px; line-height: 19px; outline: none 0px; overflow: visible; padding-top: 2px; width: 500px;">
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
Twitter から</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
安倍さん,石原前都知事,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます。猪瀬都知事,法案の成立がもう少し早ければよかったですね。多分あなたは失職しそうです。・・・。</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
権力者(支配層)の不都合情報は,この特定秘密保護法案(別名「権力者不都合情報保護法案「)が守ってくれます。だって,権力者に関する秘密は国家秘密といえるものですから・・・。</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
特定秘密保護法案の別称として,「権力者不都合情報保護法案」,「権力者不都合情報アクセス禁止法」「同・不都合情報アクセス者関係情報収集許可法案」という言葉を流行らせましょう</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
安倍さんは,国家にとって秘匿すべき重要な特定秘密(約40万件!)を守るだけと言っていますが,その仕事をする官僚や公安警察は,そんなにあまりものではないですよ。安倍さんも知ってるはずですが・・・。</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
「あまりもの」ではなく,「甘いものではない」でしたね。官僚は,来週からせっせと,特定秘密だけでなく,準特的国家機密指定の検討に入っていくと思われます。それだけでなく,情報セキュリティ(情報管理)の観点から,地位や立場によりアクセス可能な情報の仕分けも進んでいきます。</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
結局は,「由らしむべし知らしむべからず」ということですね。マスコミの取材を受けて,一般市民で「いや,必要だと思いますよ。会社だって,秘密事項がありますなんて答えている,勘違いな人がけっこういます。</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; margin-bottom: 10px; outline: none 0px;">
政府が暴走しても,次の選挙までなんにもできないのでは困ります。自民党を支持した人も,特定秘密保護法案を指示した人は少ないはずですが・・・?</div>
<div style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); box-sizing: border-box; outline: none 0px;">
まあこれくらいにしておきます。弱者の遠吠えでしょうから・・・。警察国家や監視社会になってほしくないですが,権力者におべっかを使う人間(おこぼれを頂戴しようとする人間)は少なくないですから・・・。オーウェルの「素晴らしき新世界」の実現です。原発も兵器も世界中jに売れば景気はよくなり・・・</div>
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</div>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-87120992156847516232013-11-30T11:15:00.000+09:002015-10-23T17:21:54.964+09:00『ラッセル自伝』の邦訳の見直し<pre style="font-family: 'MS Gothic'; font-size: 13px; line-height: 16px; padding: 0px; white-space: pre-wrap; word-wrap: break-word;">
</pre>
<pre style="font-family: 'MS Gothic'; font-size: 13px; line-height: 16px; padding: 0px; white-space: pre-wrap; word-wrap: break-word;"> もう11月下旬ということで,今年もあとわずかですが,今年の秋までにやろうと思
っていたことでまだできていない(多分今年中にできないだろう)ことがいくつか
あります。年月がたつのは本当に早いと感じます。少年老い易く学成り難し・・・。
少年ではないですが・・・。
ここのところ,ポータルサイトに掲載している『ラッセル自伝』の邦訳を見なおし
ていますが,昨日,下記のページまで来ました。
http://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTM<a href="http://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTM">http://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTM</a>
このページの以下の部分は,誤訳の可能性がありますが,精確にどう読むべきか,
文法的にどのように解釈すべきが,自信がありません。
The three days and nights that I spent at Studland remain in my memory
as among the few moments when life seemed all that it might be, but hardly
ever is.
(よくわからないのは,「when life seemed all that it might be」の部分です。
とりあえず,次のように訳してあります。
私がスタッドランドで(オットリンとともに)過ごした3日3晩は,人生が
およそ可能なかぎり素晴らしいものであるように思われた貴重なひとときの
一つとして,私の記億に残っている。実際は,人生はその可能性の全てを開花
させることなどめったにないのだが。
これについては,ラッセルのポータルサイト用の掲示板で,複数の人にご意見をもら
いました。
<a href="http://russell-j.com/cool/EBBS-06.HTM" style="color: #cc33cc; margin: 0px; padding: 0px; text-decoration: none;">http://russell-j.com/cool/EBBS-06.HTM</a>
しかし,まだすっきりしていません。「もっともらしい訳」をつけることはできます
が,文法的にも明確な理解をしたいと思っています。
おわかりの方は,掲示板に書いていただくか,matusitaster@gmail.com 宛にご教授
くだされば幸いです。(松下彰良)</pre>
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「核戦争の危険を除去するためには,戦争の廃絶をしなければならない。そのためには,「交戦権」という国家主権を制限し,世界連邦政府を樹立する以外にない」というのがラッセル及びアインシュタインの信念でした。それは,ラッセル=アインシュタイン宣言の精神でもあり,宣言に明確に書かれています。しかし日本では,集団的自衛権を機能・保障させることを目的に,交戦権を認めるように憲法改正をしようとする動きが強まっており,その考え方を国民に浸透させるための愛国心教育や歴史教育が強調され・・・。
<a href="http://russell-j.com/index.htm">http://russell-j.com/index.htm</a>
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から転載
今回「R落穂拾い-中級篇」でご紹介した),ハーバート・A・サイモン(著)『学者
人生のモデル』に収められているサイモンのラッセル宛の手紙は、『拝啓バートラ
ンド・ラッセル様ー市民との往復書簡集,宗教からセックスまで』(講談社,1970)に
も,「プリンキピア・マテマティカ対コンピュータ」と見出しがつけられて収録され
ています。
<a href="http://russell-j.com/beginner/DBR-INFO.HTM">http://russell-j.com/beginner/DBR-INFO.HTM</a>
「プリンキピア・マテマティカ」のなかのある定理をコンピュータ(「ロジック
セオリスト」というプログラム=人口知能)は,「その証明(法)をみつけるのに5分
もかかりませんでした。」ということで,サイモンは,これらの事実を,「生徒に知ら
せるべきかどうか私にはよくわかりません。」とおどけてみせ,すぐに「あなたはま
た,博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではないということを示している我々のこの
論文の証拠に興味をもたれることと思います。」としっかりフォローしています。
これに対しラッセルも,「(あなたの)コンピュータのほうがホワイトヘッドや私よ
りも優れているという実例を示してくださり,うれしく思います。」と論文を送って
くれたことに感謝しつつ,「コンピュータのほうが生徒よりずっと立派に計算できる
ということを彼らが知ったら,生徒たちが計算の仕方を学ぶことをどうして期待でき
るでしょうか。」とうまく返しています。
また,あわせてこのロジック・セオリストの成果をラッセル以外の有名な論理学者
に知らせたところ,人工知能(コンピュータ・プログラム)の重要性,将来性,発展性
に想いをいたすことができずに冷たい反応をしめしたことにサイモンは失望し,それ
も「博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではない」という格言を支持する別の具体
例であると揶揄しています。
「新しく起こりつつある学問に対する理解力・想像力」は,各分野のトップランナ
ーであっても(いやその分野の研究に自信のあるトップランナーであるからこそ?)
それほどない場合が多いという,歴史的教訓とも言えるかも知れません。
原子力を研究している様々な科学者がいますが,特に原発関係者は新エネルギーに
対する原発の優位性を過大に評価している(また再生可能エネルギーの研究・開発に
は時間がかなりかかると考えて引き続き自分たちの勢力を保とうとする)人が多いよ
うに思われます。
ラッセルの言葉(1958年8月8日にBBCでの発言)から一つ。
「科学が教会の迫害を受けた時代の科学者達は寛大で進歩的であった。(これに
対し)現代にあっては、科学者は名誉に包まれ、広く尊敬を受けており、彼ら
は通常'体制擁護'に回りがちである。」
In the days when science was persecuted by the Church, men of science were
liberal and progressive; nowadays, when they ae covered with honours and
universally respected, they tend to be supports of the satus quo.
(松下彰良)
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<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4569673112&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR>
</TABLE>通常の人間性の特徴の中で、'ねたみ'が最も不幸なものである。'ねたみ'深い人は、他人に災いを与えたいと思い、とがめられることなく(罰を受けることなく)できるときにはいつでもそうするだけでなく、'ねたみ'によって、自分自身をも不幸にする。('ねたみ'深い人は自分が持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出す。<br />
Of all the characteristics of ordinary human nature envy is the most unfortunate; not only does the envious person wish to inflict misfortune and do so whenever he can with impunity, but he is also himself rendered unhappy by envy. Instead of deriving pleasure from what he has, he derives pain from what others have. <br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA16-030.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA16-030.HTM</a><br />
<br />
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<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4140881216&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR BGCOLOR="#DFDFDF">
</TABLE>疲労の原因は、非常に多くの場合、'興奮を好むこと'にある。余暇を睡眠に費やせるならば、人間はいつも健康を保てるだろう。働いている時間は退屈なため、自由時間には娯楽の必要を感じる。困ったことに、最も手に入れやすく、表面的に最も魅力的な娯楽は、大部分、神経を消耗する種類のものである。<br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-080.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-080.HTM</a><br />
A very frequent source of fatigue is love of excitement. If a man could spend his leisure in sleep, he would keep fit, but his working hours are dreary, and he feels the need of pleasure during his hours of freedom. The trouble is that the pleasures which are easiest to obtain and most superficially attractive are mostly of a sort to wear out the nerves.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-28077279579816607012010-08-25T23:20:00.000+09:002010-08-25T23:20:32.078+09:00ラッセル格言・名言(n021.)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD BGCOLOR="#800000"><br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4087482340&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR>
</TABLE>何らかの災難が迫ってきたときには、起こる可能性のある最悪の事態はどのようなものか、真摯かつ慎重に考えてみるとよい。起こりうる災難を直視した後は、それは結局、それほど恐ろしい災難ではないだろうとみなすに足る、しっかりした理由を見つけるとよい。そのような理由は、常に存在している。なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、宇宙的な重要性を持つものは一つもないからである。しばらく最悪の可能性をしっかり見すえ、真に確信をもって、「いや、結局、それはそれほど重要なことではないだろう」と、自分自身に言いきかせたとき、あなたは自分の心配事がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。<br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM</a><br />
When some misfortune threatens, consider seriously and deliberately what is the very worst that could possibly happen. Having looked this possible misfortune in the face, give yourself sound reasons for thinking that after all it would be no such very terrible disaster. Such reasons always exist, since at the worst nothing that happens to oneself has any cosmic importance. When you have looked for some time steadily at the worst possibility and have said to yourself with real conviction, 'Well, after all, that would not matter so very much', you will find that your worry diminishes to a quite extraordinary extent.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-31132844629143618882010-08-24T21:25:00.000+09:002010-08-24T21:25:47.100+09:00ラッセル格言・名言(n.020)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD BGCOLOR="#800000"><br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4479391096&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR>
</TABLE>たとえば、私があるかなり難しい話題について書かなければならないとした場合、最良の方法は、その話題について、非常に強烈に、自分に可能なかぎりの最大級の強度(集中力)をもって数時間ないし数日間考え、その期間の最後に、いわば、この作業を地下で続行せよと命令する、というやり方である。何ケ月か経過してから、その話題に意識的に立ち返ってみると、その作業はすでに終わっているのを発見する。<br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM</a><br />
I have found, for example, that if I have to write upon some rather difficult topic the best plan is to think about it with very great intensity - the greatest intensity of which I am capable - for a few hours or days, and at the end of that time give orders, so to speak, that the work is to proceed underground. After some months I return consciously to the topic and find that the work has been done.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-23887389332611093792010-08-23T22:29:00.000+09:002010-08-23T22:29:42.608+09:00ラッセル格言・名言(n.019)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD BGCOLOR="#800000"><br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4320054024&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR>
</TABLE>情緒的な疲労のやっかいな点は、休息を妨げるということだ。人は疲れれば疲れるほど、仕事をやめることができなくなる。神経衰弱が近づいた徴候の一つは、自分の仕事は非常に重要であり、休暇をとったりすれば種々の災難をもたらすことになる、と思いこむことである。<br />
http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-040.HTM<br />
The trouble with emotional fatigue is that it interferes with rest. The more tired a man becomes, the more impossible he finds it to stop. One of the symptoms of approaching nervous breakdown is the belief that one's work is terribly important, and that to take a holiday would bring all kinds of disaster.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-18561337477688493922010-08-22T10:55:00.001+09:002010-08-22T10:56:20.754+09:00ラッセル:格言・名言(n.018)<table border=1 ALIGN="right"><tr><td bgcolor="#FFFF00"> <br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4569612970&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR BGCOLOR="#DFDFDF"> </TABLE>その人の生涯の幸福に終止符を打つにちがいないと思われるような'悩みごと'も、時がたつにつれ色あせてゆき、ついには、その痛切さを思い出すことさえほとんどできなくなる。しかし、さらにこうした自己中心的な考えに加うるに、(各個人の)自我など全然世界の大きな部分ではない、という事実がある。自己を超越するものに思考と希望を集中できる人は、人生の普通の悩みごとの中に、全くのエゴイストには望めない、ある種の安らぎを見いだすことができる。<br />
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Even great sorrows can be survived; troubles which seem as if they must put an end to happiness for life fade with the lapse of time until it becomes almost impossible to remembcr their poignancy. But over and above these self-centred considerations is the fact that one's ego is no very large part of the world. The man who can centre his thoughts and hopes upon something transcending self can find a certain peace in the ordinary troubles of life which is impossible to the pure egoist.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-67447681973150942672010-08-11T09:09:00.001+09:002010-08-11T09:10:11.923+09:00ラッセル格言・名言(n.0017)<table border=1 ALIGN="right"><tr><td bgcolor="#FFFF00"> <br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4480062505&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR BGCOLOR="#DFDFDF"> </TABLE>きちんとした精神を養うことで、どれほど幸福と効率が増すかは、驚くほどである。きちんとした精神は、<b>ある事柄について24時間不十分に考えるのでなく、考えるべき時に十分に考える</b>。困難な、あるいはやっかいな結論を出さなければならない時には、すべてのデータが集まり次第、その問題について十分に考え抜いた上、決断を下すとよい。<b>決断した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない</b>。優柔不断くらい心身を疲れさせるものはないし、不毛なものはない。 (『ラッセル幸福論』第5章「疲労」から)<br />
http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-020.HTM<br />
It is amazing how much both happiness and efficiency can be increased by the cultivation of an orderly mind, which thinks about a matter adequately at the right time rather than inadequately at all times. When a difficult or worrying decision has to be reached, as soon as all the data are available, give the matter your best thought and make your decision; having made the decision, do not revise it unless some new fact comes to your kuowledge. Nothing is so exhausthg as indecision, and nothing is so futile.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-41429889586656087302010-08-11T08:32:00.001+09:002010-08-11T08:46:55.373+09:00ラッセル格言・名言(n.0016)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD bgcolor="#FFFF00"> <br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0009VEBTQ&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR BGCOLOR="#DFDFDF">
</TABLE><b>自分のライフスタイルを選択できるほど裕福な人々</b>の間において、特に彼らが苦しんでいる耐え難い退屈は、逆説的であるように思われるかもしれないが、<b>退屈への恐れ</b>にその原因がある。実りある退屈から逃げることで、別の、より悪い種類の退屈の餌食になってしまう。幸福な生活は、大部分、静かな生活でなければならない。なぜなら、真の喜びは、静かな雰囲気の中でのみ、生きながらえることができるからである。(『ラッセル幸福論』第4章「退屈と興奮」から) <br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-070.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-070.HTM</a><br />
Among those who are rich enough to choose their way of life, the particular brand of unendurable boredom from which they sufier is due, paradoxical as this may seem, to their fear of boredom. In flying from the fructifying kind of boredom, they fall a prey to the other far worse kind. A happy life must be to a great extent a quiet life, for it is only in an atmosphere of quiet that true joy can live.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-3671854822983681732010-07-28T20:50:00.000+09:002010-07-28T20:50:25.952+09:00ラッセル格言・名言(n.0015)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD BGCOLOR="#800000"><br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B003NYUTWO&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR>
</TABLE>何らかの真面目かつ<b>建設的な目的</b>を持っている青少年は、目的の達成の途上で必要だとわかれば、自主的に多くの退屈に耐えるだろう。だが、建設的な目的は、娯楽と浪費の生活を送っている少年の精神の中では、容易には芽ばえない。なぜなら、そのような場合は、考えがつねに<b>次の快楽</b>に向いており、遠くにある目的達成には向かわないからだ。<br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM</a><br />
A boy or young man who has some serious constructive purpose will endure voluntarily a great deal of boredom if he finds that it is necessary by the way. But constructive purposes do not easily form themselves in a boy's mind if he is living a life of distractions and dissipations, for in that case his thoughts will always be directed towards the next pleasure rather than towards the distant achievement.Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-37040800.post-10340635143736736722010-07-26T22:50:00.000+09:002010-07-26T22:50:02.685+09:00ラッセル格言・名言(n.0014)<TABLE border=1 ALIGN="right"><TR><TD bgcolor="#FFFF00"> <br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=russellj-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4544053064&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
</TD></TR BGCOLOR="#DFDFDF">
</TABLE><b>多少とも単調な生活に耐える能力は、幼少期に獲得されるべきものである。</b>この点で、現代の親たちは大いに責任がある。・・・。<br />
<a href="http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM">http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM</a><br />
(The capacity to endure a more or less monotonous life is one which should be acquired in childhood. Modern parents are greatly to blame in this respect; they provide their children with far too many passive amusements, such as shows and good things to eat, and they do not realise the importance to a child of having one day like another, except, of course, for somewhat rare occasions.)Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/03806901554143301748noreply@blogger.com0