金曜日, 5月 15, 2015

見かけ上の "as well ~ as" に要注意

 最近始めた(さくらインターネット上の)ブログ「ラッセルの英語」の宣伝を兼ねて、以下再掲します。

==================================
 以下は,明日,『(ほぼ日刊)ラッセルの言葉366』(メルマガ)で配信する予定のものです。
 http://archive.mag2.com/0001626338/index.html
 前後を含めたものは以下に本日掲載しました。
 http://russell-j.com/beginner/OE11-080.HTM

 要注意な点は、"as well as" の構文ではないことです。"own thoughts as regards the attitude" を一塊ととらえる必要があります。そのようにとらえないと,魚津訳(みすず書房版)や堀訳(角川文庫版のような(「自分の思想をはっきりさせることが必要であるように,親に対するどのような態度を子供たちに期待スべきかについても,はっきりさせておく必要がある」といった)誤訳が生まれてしまいます。

(原文)
It is as well to be clear in our own thoughts as regards the attitude we are to expect from children to parents. If parents have the right kind of love for their children, the children's response will be just what the parents desire. The children will be pleased when their parents come, and sorry when they go, unless they are absorbed in some agreeable pursuit; they will look to their parents for help in any trouble, physical or mental, that may arise ; they will dare to be adventurous, because they rely upon their parents' protection in the background -- but this feeling will be hardly conscious except in moments of peril. They will expect their parents to answer their questions, resolve their perplexities, and help them in difficult tasks. Most of what their parents do for them will not enter into their consciousness. They will like their parents, not for providing their board and lodging, but for playing with them, showing them how to do new things, and telling them stories about the world. They will gradually realize that their parents love them, but this ought to be accepted as a natural fact. The affection that they feel for their parents will be quite a different kind from that which they feel for other children. The parent must act with reference to the child, but the child must act with reference to himself and the outer world. That is the essential difference. The child has no important function to perform in relation to his parents. His function is to grow in wisdom and stature, and so long as he does so a healthy parental instinct is satisfied.

(訳例)
 親に対してどのような態度を子供に期待すべきかについて,私たちの考えをはっきりさせておくこともまたよいことであろう。親が我が子に対して正しい愛情を持っているならば,子供の反応は,まさに親の望みどおりのものになるだろう。子供たちは --何か楽しい遊びに夢中になっているのでないかぎり-- 親が自分の方にやってくれば喜び,行ってしまえば悲しむ。子供たちは,肉体的なことでも,精神的なことでも,困ったことが生じれば親の助けを求める。即ち,子供たちは,思いきって冒険をしようとするであろうが,それは,背後に親の保護を当てにしているからである。だが,この感情は,危機に陥った瞬間を除いてほとんど意識にのぼってこないであろう。子供たちは,親が自分の質問に答え,子供にとって困難な問題を解決し,骨の折れる仕事を手伝ってくれることを期待している。親が子供のためにしてやることは,大部分,子供にの意識にはのぼらない。子供は,親が好きになるだろうが,それは,食事や住むところを与えてくれるからではなく,いっしょに遊んでくれ,子供にとって目新しい事物のやり方を教えてくれ,世の中のいろんな話をしてくれるからである。子供たちは,両親が自分を愛していることをしだいに理解するだろうが,それは,あたりまえの事実として受け取られなければならない。子供が両親に対して感じる愛情は,よその子供たちに対して感じる愛情とはまったく異なるものであろう。親は子供のこととの関連で(念頭において))行動しなければならないが,子供は自分自身と自分の外の世界との関連で(念頭において)行動しなければならない。ここが本質的に違うところである。子供は,親との関連で果たすべき重要な役割をまったく持っていない。子供の役割は,知恵と身体において成長することであり,子供がそのように成長している限り,健全な親の本能は満足するのである。

月曜日, 5月 04, 2015

原子力発電推進あるいは許容(原発再稼働)の心理と論理

 (以下は,2015年5月3日にさくらインターネット上に掲載したブログからの転載です。
     http://russell-j.sblo.jp/article/126559588.html

 地震がほとんどないような国や地域においては,原子力発電は有力なエネルギー確保手段であろうが,自然災害(特に大地震)が多い日本のような国においては、大変リスキーなものとなっている。それでも,政財界で現在権力をもっている人達は,原子力は重要なベース電源であり,「世界一の安全基準」のもと、今後も維持していく必要があるとしている。
 しかし,この主張も,福島で起こったことがほかの原発で再度起こり、多数の死者や被害者がでた場合には、原発を擁護した(再開させた)政治家や財界人(電力会社のトップ及び直接の責任者)は死刑または無期懲役になる、ということであれば、そこまで言うのであればと、譲歩する用意はある。しかし,そのような事態が起こったとしても,せいぜい政治の世界から引退したり、役職をしりぞくだけであるならば,つまり厳しい責任をとらないというのであれば、無責任というよりないだろう。

 現在,日本政府は,原発を日本のベース電源として位置づけ,自然エネルギー(22~24%くらい)に続いて2番目の主要電源(20~22%くらいを確保)としている(その心は,22%として同等としたいが、それでも国民の非難が沸き起こるかもしれないので,形だけ自然エネルギー優位にしている?)。
 しかし,個々の原発の再開においては,政府が再開を押し付けたと言われるとこまるので,原子力規制委員会の「厳しい」安全審査のもとに,電力会社が自発的(表向きは国民に安価な電力を供給するため)に停止中の原発の再開させる、という姿勢(=たてまえ)をとっている。ところが,電力会社としては、「国からの要請(国策に協力」ということを全面に押し出しており、事故が起こった場合も国からの全面的な支援や救済を期待している。現政府や原発企業は、「世界一の安全基準」のもとに原子力規制委員会の審査をパスできたのであれば、もしも大地震が起こり大事故が起こったとしても「想定外」として扱うことができると内心考えている。 つまり,原発企業も、国も、原子力規制委員会も、いずれも再び大事故が起こったとしても、自分には第一の責任がないか、あるいは三者の共同責任にすることができると踏んでいる。「国が全面的にバックアップ」するといっても、「国民の血税を使います」、と言っているだけであり,結局は国民全体が責任を引き受けるということにすぎない。

 できるだけ自分の方に「実質的な」責任が及んでこないように,言葉を選んでいるが,原発による大事故が起こり、多くの死者がでた場合には、原発を再開させるのに力を注いた政治家や企業経営者(日頃記録にとどめておきましょう。)は終身刑や無期懲役も十分ありうるということがなく,結局は役職を去るだけ(あるいは政治の世界から引退)ということだけであるならば、誰もまともに向き合うことはないだろう。
 長い間刑務所にはいるといった,厳しい実刑が担保されないかぎり,今後も、無責任な言動しかしないだろう。
 今後、どこで大きな地震が起こるとも限らない(遠い昔に,川内原発のあるところもまで、火砕流が流れた跡があると言われれいる。)日本において原発を維持することは無理であり,「国民に易いの電源を確保するため」,と言い続けるだけの政治家や企業経営者は「不道徳」だと言わざるをえないだろう。
 最後に、気になることを少し列挙しておきます。

 ========================= 
・地表に断層が現れていなくても,地下10~15kmのところに断層があり、それが動くということもあるということ(淡路‥阪神大震災における淡路島の断層?)
・過去200年くらい大きな地震が起こっていない(=実際は記録がないだけ)からと言って安心できないこと。1万年前は中国大陸と日本はつながっており、日本海は大きな湖であったこと、また日本列島全体が東に向かって移動しつつあり,それだけの巨大な力が働いていること。日本列島全体が現在火山活動期に入っているらしいこと(京大の鎌田教授の証言)
・テロによって,運転中の原発が破壊されることがありうること。広島型の原爆であれば、個人がバズーカで発射できるくらいになっていること。いや核兵器などをもちださなくても、強力な爆弾をつんだ小型ロケット(or高性能のドローン!?)をテロリストが原発に打ち込むことはそれほど難しくなさそうである。
・原発維持のかくれた(第一の)目的は防衛のためであり,日本のエネルギー源確保ではなく、原発で生み出される使用済核燃料によって、プルトニュームを確保して、いつでも核兵器をつくれるようにしておくことかもしれない。
 ==========================