月曜日, 1月 20, 2014

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』におけるラッセル『幸福論』の「誤読」について

以下は
 http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2014.html#br2014-2
 からの再録です。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 』(朝日出版社,2011年10月刊.)(2014.1.19)
* 國分功一郎(こくぶん・こういちろう, 1974~ ):早稲田大学政経学部卒,
 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学
 経済学部准教授で哲学専攻。

 本書は2011年度の「紀伊國屋じんぶん大賞」を受賞をしており,よく読まれているようです。私も興味深く読むことができました(1度目は速読し,2度目に精読しました)。ただし。ラッセルの著作(ここでは『幸福論』)に関する國分氏の誤解が少なくないように思われます。『暇と退屈の倫理学』の読者も多いことから,その点だけご紹介及びコメントをしておきたいと思います。
 

 國分氏は,本書で,ハイデガーの思想,特に「退屈論」(「形而上学の根本概念」)を主な材料として評価・批判しながら自分の考えを順々に説き,著者が重要だと着眼した<暇と退屈の'倫理学'>について詳細に述べています。
 ハイデッガーの次に引用が多いのは,ラッセル(の著書)からです(特に本書 pp.49-67)。ただし引用は,『幸福論』のみからであり,本書のテーマに直接関係のある,ラッセルの『怠惰への讃歌』からは皆無です。國分氏は,ラッセルの『幸福論』を評価もしていますが,この本の結論から考えれば,重要なのは批判しているところだと思われますので,ここではその部分についてのみとりあげてみます。

 國分氏は,ラッセルの『幸福論』(あるいはラッセル思想や人間性)について,誤解や思い込み(なかには,意図しない?曲解)が少なくないように思われます。
 まず一つ目の誤解(思い込み?)は,ラッセル『幸福論』に出てくる,幸福になるための条件の一つである「熱意」に関する國分氏のコメントです。(ちなみに,國分氏は,p49.で,ラッセルは「ノーベル平和賞を受賞した大知識人」と書いていますが,これはもちろん「ノーベル文学賞」の勘違いです。)

 『暇と退屈の倫理学』の中の該当部分を少し長いですが,抜き出してみます。
(pp.14-30) 序章 「好きなこと」とは何か


(p.14) イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は,一九三〇年に『幸福論』という書物を出版し,そのなかでこんなことを述べた(注:下線は,著者の國分氏が引いたもの)。いまの西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し,東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは,若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから・・・。
 ラッセルが言っているのは簡単なことである。
 二〇世紀初頭のヨーロッパでは,すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
 それに対し,ロシアや東洋諸国では,まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから,若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。だからそこでは若者たちは幸福である。
 彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば,そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に,そうしたすばらしい状況にいない人々,打ち込むべき仕事をもたぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。
 しかし,何かおかしくないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?
 ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは,その社会をよりよいものに,より豊かなものにするためだ。ならば,社会が実際にそうなったのなら,人は喜ばねばならないはずだ。なのに,ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく,より豊かになると,人はやることがなくなって不幸になるというのだ。
 もしラッセルの言うことが正しいのなら,これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人は逆に不幸になる。それだったら,社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず,惨めな生活を続けさせておけばいい。なぜと言って,不正をただそうとする営みが実現を見たら,結局人々は不幸になるというのだから。
 なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かおかしいのではないか?
 そう,ラッセルの述べていることは分からないではない。だが,やはり何かおかしい。そして,これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも,やはりどこかおかしいのである。
 ラッセルが主張したように,打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら,この事態はもうどうにもできないことになる。やはり私たちはここで,「何かがおかしい」と思うべきなのだ。
 
 ラッセルは,このようなこと(特に「打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸である」といったようなこと)は言っていないことは,先入観なしに『幸福論』を読めば,ほとんどの人が理解する思われますが,國分氏はなぜこのように読んでしまう,あるいは読めてしまうのでしょうか?(注:國分氏が好きなドゥルーズが大胆な解釈のためには「誤読」が必要だと述べているようですが,國分氏も「誤読」を気にしないためでしょうか?)

 次のコメントも同様です。
(p.61) 熱意はおそらく幸福と関連している。だが,ラッセルはそこから「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」という結論に至ってしまった。
 実際,ラッセルはこの結論の問題点にも気づいていたようにも思われる。彼は熱意の傾けられる道楽や趣味が,大半の場合は根本的な幸福の源泉でなくて,現実からの逃避になっているとも指摘しているからである。
 しかもラッセルは,本物の熱意とは,忘却をもとめない熱意であるとも述べている。彼は,「熱意」と見なされる現象が,単に現実から眼をそらす逃避や忘却のための「熱意」でありうる可能性にきづいているのだ。・・・。
 「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」などと,ラッセル言っていません。また,「(ラッセルも)気づいていたようにも思われる」ではなく,最初から「熱意」は幸福になるための条件の「一つ」だと言っています。
 ラッセルは,幸福になるための積極的条件として,熱意(Zest)だけではなく,愛情(Affection),家族(The family),仕事(Work),及び(外界に対する)非個人的な興味(Impersonal interests)をあげています。また,必要な努力をした後はどうしても達成できないことはあきらめることができること(Effort and resignation)などをあげています。
 (下記のページにラッセル『幸福論』の目次をあげてあります。また,この目次経由で,ラッセル『幸福論』を対訳(松下訳)で全て読むことができますので,参照してみてください。

  http://russell-j.com/beginner/KOFUKU.HTM

 國分氏は,この思い込みのもと,さらに次のように書いています。

(p.62) したがって,当時のヨーロッパの青年たちを,当時のロシアや日本の青年たちと比べるという(ラッセル)の視点そのものが完全にまちがっていると言わねばならない。これは,現代のそれなりに裕福な日本社会を生きる若者を,発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて,「後者の方が幸せだろう」と言うのに等しい。これはまちがっているどころか,倫理的に問題がある。なぜなら,それは不幸への憧れを生み出すからである。
 不幸に憧れてはならない。したがって,不幸への憧れを作り出す幸福論はまちがっている。<暇と退屈の倫理学>の構想はこの点に大いに注意せねばならない。
 軽い気持ちで,ラッセルが一つの例としてあげた「ロシアの青年の熱意」を針小棒大にとりあげるのはどうでしょうか? ラッセルは,革命直後の(当時の)ロシアの青年は革命に対する熱意から幸福を感じているという「現象面」をとりあげているだけであり(幸福の「質」について客観的評価をしているわけではなく),それ以上でもそれ以下のものでもありません。(因みに,ラッセルは,1920年夏に,英国労働党代表団に随行し,革命直後のロシアを訪問し,帰国後の1922年に The Pracice and Theory of Bolshevism(邦訳書名:『ロシア共産主義』を執筆・出版し、ロシア共産主義に対するするどい批判を行っています。) 國分氏が,独自の<暇と退屈の倫理学>を構築したいのであれば,枝葉末節の記述を拡大解釈したり,針小棒大にとらないように,(國分氏が自ら言っているように)「大いに注意をせねばならない」のではないでしょうか? 

 このように「誤読」が多いと,他の著者の著作の引用・紹介も大丈夫だろうかと思われてきます。
 
 もちろん,ラッセルの書き方にも原因はあります。
 ラッセルの著書は,専門的な本(Aグループとします。)と一般向けの本(Bグループとします。/ popular books)の2つのグループに分けることができます。後者はさらに,教養のある知的な一般読者向けの本(B1グループ/『哲学入門』や『西洋哲学史』など)と,そういった制限があまりない一般読者向けの本(B2グループ/『幸福論』や『教育論』など)にわけることができます。
 ラッセルは,著書の執筆において,「精確」であること(多義的であいまいにならないこと),読者に誤解を生じさせる余地を与えないことを重要と考え,そのためには文章の流麗さを犠牲にすることも気にしませんでした。
 しかし,ラッセルは大学等の定職につくことはあまりなく,主に文筆によって,生計の糧を得て,家族を養っていましたので,B2グループの本の執筆においては,精確さを多少犠牲にして,面白おかしいエピソードやたとえ話をかなり挿入しました(注:既存の組織に定職を持つと言いたいことも言えなくなる恐れがあるため,ラッセルは若い時に,可能な限り,文筆業で生計をたてようと決意をします。ラッセルは貴族で財産がいっぱいあったからではありません。)。そのせいもあり,『結婚論』における「黒人の能力」に関する記述やキリスト「的な」愛(Christian love)の強調等々,たまにではありますが,世界の読者に誤解を与えてしまいました。
 http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM

 ロシア革命前後においてロシアの青年は「熱意」を持つことができて幸福そうだというラッセルがあげた例 --私もあまり良い例だとは思いませんが-- について,,國分氏が,「(ラッセルが)熱意さえあれば幸福であると言っているのは間違いだ」として論じているのはいただけません。ラッセルの『幸福論』を先入観なしで読めば,「熱意」は,ラッセルがあげている,幸福になるための(有力な)条件の,あくまでも「一つ」であり,よほど不注意な読者でなければ,熱意「さえ」あれば幸福になれる,とは読まないと思われます。なぜそのように読んでしまう(読めてしまう)のでしょうか?

 それに,ラッセルの『幸福論』の原書のタイトル The Conquest of Happiness(幸福の「克服」=幸福は棚からボタ餅のように,努力しないで落ちてくるものではなく,克己努力して勝ち得るものだという意味合いを含んだタイトル)にあるように,不幸の原因について徹底的に分析し,処方箋を提示した後に初めて幸福になるための積極的な条件についてふれる,という構成及びアプローチの仕方をとっていることを充分理解していないのではないか,と言いたくなります。

 ラッセルはこの『幸福論』において,戦争や飢餓状態にあるなど,厳しい外的環境の中にいる人ではなく,一応世間一般の平均的な暮らしができる人々で,日常的な不幸に苦しんでいる人たちが,不幸の原因を知り,克服し,幸福になるための処方箋を書いた,とはっきり書いていることも,よく頭に入れておく必要があります。

 それから,次の記述も気になりました。
(p.188) しかし,(ハンナ・アレントによるマルクスのテキストの改ざんについて)アレントを非難しても仕方がない。問題は,「欠乏と外的有用性によって決定される」という文句がアレントの目に入ってこないということだ。もうこうなると,読み間違いの問題ではない。アレントの欲望の問題である。アレントはマルクスのなかに労働廃棄の思想を読み取りたくて仕方ないのである。
 國分氏の指摘されるとおりかもしれないですが,しかし,これは「両刃の剣」ではないでしょうか?
 即ち,國分氏も,ラッセル『幸福論』の中に,「ラッセルは,熱意さえもてれば人間は幸福になれる」と言っていると「読み取りたくて仕方がなかった」のではないか,と。

 本書(『暇と退屈の倫理学』)の結論のところで,國分氏は次のような批判的なコメントも書いています。
(p.343) ラッセルはこんなことを言っている。「教育は以前,多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。ラッセルがこう述べることの前提にあるのは,楽しむためには準備が不可欠だということ,楽しめるようになるには訓練が必要だということである。・・・。中略・・・。
 「楽しむためには訓練が必要だ」と言うと,どうもハイカルチャーのことが想像されてしまうきらいがある。実際,ラッセルは食のような楽しみのことは考えていない。彼は上の引用文に付け加えて,訓練を必要とする楽しみとは,すなわち,「てんで教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである」と述べている。(こういうところがラッセルという哲学者の限界である。)
 ラッセルは貴族だからという先入観があるのでしょうか?
 ラッセルは単純に,誰でもが素朴に楽しめるもの以外に,訓練や努力によって楽しむことができるようになるものがある,また興味を持てるものが多ければ多いほどその人はより幸福になれる「可能性」が増えると言っているにすぎません。「てんで教養のない人たちには縁のない」などという(國分氏の感情のこもった)表現の中に,偏見や思い込みがプンプン感じられます。


 あと一つだけにしておきます。

 國分氏は,本書の最後で以下のように書いています。ここに書かれている「労働時間の短縮」及び「余暇(時間)の有効活用」は,ラッセル(著)『怠惰への讃歌』における中心的な主張でもあり,本書でひとことも触れられていないのは残念です(國分氏は読んでいないのではないでしょうか!?)。
(p.356) マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的な条件にあずかることができる社会が作られねばならない。そして,物を受け取り,楽しむことが贅沢であるのなら,暇の「王国」を作るための第一日は,贅沢のなかからこそ始まるのだ。

 最後に,ラッセル『幸福論』から,関係ありそうなところを少し引用しておきます。
 私の目的は,文明国の大半の人びとが苦しんでいる普通の日常的な不幸に対して,一つの治療法を提案することにある。そういった不幸は,はっきりした外的原因がないため,逃れようがないように思われるために,それだけ耐えがたいものである。私の信じるところでは,こうした不幸は,大部分,間違った世界観,間違った倫理,間違った生活習慣によるものであり,人間であれ動物であれ,結局はその幸福のすべてがよっているところの実現可能な事柄に対する,あの自然な熱意と欲望を(そういった不幸は)打ちくだいてしまうのである。こういうことは,個人の力でなんとかなる事柄である。そこで,私は人並みの幸運さえあれば,幸福が達成できるような(生活の)改変を提案しようと思う。
  http://russell-j.com/beginner/HA11-020.HTM

 私の考えでは,'退屈'は,人間の行動における要因の1つとして,それに値する注意を払われていない(←注目を受けていない)。'退屈'は,有史時代を通じて大きな原動力の一つであったと信ずるが,現代においてもかつて以上にそうである。'退屈'は,人間特有の感情であるように思われる。・・・。 退屈の本質的要素の一つは,現在の状況と,想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。・・・。
 '退屈'は,本質的には,事件を望む気持ちのくじかれた状態をいい,事件は必ずしも愉快なものでなくてもよく,'倦怠の犠牲者'にとっては,今日と昨日を区別してくれるような事件であればよい。退屈の反対は,ひと言で言えば,快楽ではなく興奮である。・・・。
 http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM

 戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた(←経験して知る)。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。
 http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

 多少とも単調な生活に耐える能力は,幼少期に獲得されるべきものである。この点で,現代の親たちは大いに責任がある。・・・。
 私は,単調さそのものに独自のメリットがあると主張しているわけではない。私はただ,ある種の良いものは,ある程度の単調さのあるところでなければ可能ではない,と言っているにすぎない。・・・。 退屈に耐えられない世代は,小人物の世代,即ち,自然のゆったりした過程から不当に切り離され,生き生きとした衝動が,花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。
  http://russell-j.com/beginner/HA14-060.HTM

 現代の都市に住む人びとが苦しんでいる特別な種類の退屈は,彼らが「大地」の生から切り離されていることと密接に結びついている。そのことによって,生活は,砂漢の中の(孤独な)巡礼のように,暑く,ほこりっぼく,のどのかわくものになっている。自分のライフスタイルを選択できるほど裕福な人々の間において,特に彼らが苦しんでいる耐え難い退屈は,逆説的であるように思われるかもしれないが,退屈への恐れにその原因がある。実りある退屈から逃げることで,別の,より悪い種類の退屈の餌食になってしまう。幸福な生活は,大部分,静かな生活でなければならない。なぜなら,真の喜びは,静かな雰囲気の中でのみ,生きながらえることができるからである。
 http://russell-j.com/beginner/HA14-070.HTM

 しかしながら,(一時的な)流行追求や趣味は,多くの場合,多分大部分,根本的な幸福の源泉ではなく,現実からの逃避のための手段になっている。即ち,直視するには大きすぎる苦痛を当面の間忘れるための手段になっている。根本的な幸福は,ほかの何にもまして,人(間)や事物に対する'友好的'な関心とも言うべきものに依存しているのである。
 http://russell-j.com/beginner/HA21-060.HTM


 '幸福な人'とは,(できるだけ先入観を持たず)客観的に生き,自由な愛情と幅広い興味を持ち,またそういう興味と愛情を通して,今度は逆に,他の多くの人びとの興味と愛情の対象になるという事実を通して,自らの幸福を確保する人である。愛情の受け手になることは,幸福になるための有力な原因である。しかし,'愛情を要求する人'は,'愛情が与えられる人'ではない。愛情を受ける人は,大まかに言えば,愛情を与える人である。しかし,利子付きで金を貸すようなやり方で,愛情を打算で(計算づくで)与えようとすることは無益である。なぜなら,計算づくの愛情は本物ではないし,受け手からも本物とは思われないからである。
 http://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM

月曜日, 1月 13, 2014

「ゲーテの言葉」なのに「ラッセルの言葉」とされているもの

 本日,次の言葉が某ブログで「ラッセルの言葉だとして紹介しているのを見つけました。

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 http://blog.goo.ne.jp/idconsult/e/2f05bd352c449c2b1033ee0d0939872a
 HE CHIEF CAUSE OF FAILURE AND UNHAPPINESS IS TRADING WHAT WE WANT MOST    FOR WHAT WE WANT IN THE MOMENT
  BERTRAND RUSSELL
 失敗や不幸の主たる原因。それは我々が本当にしたい事の代わりに、今したい事を(刹那的に) 選んでしまう事にある。バートランド・ラッセル(編集長訳)
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 しかし,ラッセルの『幸福論』にもこの言葉はないことから,調べてみたら,「ゲーテの言葉」(ドイツ語を英訳したもの)であることがわかりました。

 Google で検索すると Bertrand Russell の言葉として紹介しているものが多数ありますが,違いますので、ご注意ください。

日曜日, 12月 08, 2013

安倍さん,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます!

安倍さん,石原前都知事,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます。猪瀬都知事,法案の成立がもう少し早ければよかったですね。
Twitter から
安倍さん,石原前都知事,「権力者不都合情報保護法案」の成立おめでとうございます。猪瀬都知事,法案の成立がもう少し早ければよかったですね。多分あなたは失職しそうです。・・・。
権力者(支配層)の不都合情報は,この特定秘密保護法案(別名「権力者不都合情報保護法案「)が守ってくれます。だって,権力者に関する秘密は国家秘密といえるものですから・・・。
特定秘密保護法案の別称として,「権力者不都合情報保護法案」,「権力者不都合情報アクセス禁止法」「同・不都合情報アクセス者関係情報収集許可法案」という言葉を流行らせましょう
安倍さんは,国家にとって秘匿すべき重要な特定秘密(約40万件!)を守るだけと言っていますが,その仕事をする官僚や公安警察は,そんなにあまりものではないですよ。安倍さんも知ってるはずですが・・・。
「あまりもの」ではなく,「甘いものではない」でしたね。官僚は,来週からせっせと,特定秘密だけでなく,準特的国家機密指定の検討に入っていくと思われます。それだけでなく,情報セキュリティ(情報管理)の観点から,地位や立場によりアクセス可能な情報の仕分けも進んでいきます。
結局は,「由らしむべし知らしむべからず」ということですね。マスコミの取材を受けて,一般市民で「いや,必要だと思いますよ。会社だって,秘密事項がありますなんて答えている,勘違いな人がけっこういます。
政府が暴走しても,次の選挙までなんにもできないのでは困ります。自民党を支持した人も,特定秘密保護法案を指示した人は少ないはずですが・・・?
まあこれくらいにしておきます。弱者の遠吠えでしょうから・・・。警察国家や監視社会になってほしくないですが,権力者におべっかを使う人間(おこぼれを頂戴しようとする人間)は少なくないですから・・・。オーウェルの「素晴らしき新世界」の実現です。原発も兵器も世界中jに売れば景気はよくなり・・・

土曜日, 11月 30, 2013

『ラッセル自伝』の邦訳の見直し


 もう11月下旬ということで,今年もあとわずかですが,今年の秋までにやろうと思
っていたことでまだできていない(多分今年中にできないだろう)ことがいくつか
あります。年月がたつのは本当に早いと感じます。少年老い易く学成り難し・・・。
少年ではないですが・・・。

 ここのところ,ポータルサイトに掲載している『ラッセル自伝』の邦訳を見なおし
ていますが,昨日,下記のページまで来ました。
 http://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTMhttp://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTM
 このページの以下の部分は,誤訳の可能性がありますが,精確にどう読むべきか,
文法的にどのように解釈すべきが,自信がありません。

  The three days and nights that I spent at Studland remain in my memory
  as among the few moments when life seemed all that it might be, but hardly
   ever is.

  (よくわからないのは,「when life seemed all that it might be」の部分です。
 とりあえず,次のように訳してあります。

   私がスタッドランドで(オットリンとともに)過ごした3日3晩は,人生が
   およそ可能なかぎり素晴らしいものであるように思われた貴重なひとときの
   一つとして,私の記億に残っている。実際は,人生はその可能性の全てを開花
   させることなどめったにないのだが。
 
 これについては,ラッセルのポータルサイト用の掲示板で,複数の人にご意見をもら
いました。
 http://russell-j.com/cool/EBBS-06.HTM
 しかし,まだすっきりしていません。「もっともらしい訳」をつけることはできます
が,文法的にも明確な理解をしたいと思っています。
 おわかりの方は,掲示板に書いていただくか,matusitaster@gmail.com 宛にご教授
くだされば幸いです。(松下彰良)

金曜日, 8月 09, 2013

戦争の廃絶と国家主権の制限(ラッセル=アインシュタイン宣言の精神)

 バートランド・ラッセルのポータルサイトのトップページの「ラッセルの言葉」を更新しました。  「核戦争の危険を除去するためには,戦争の廃絶をしなければならない。そのためには,「交戦権」という国家主権を制限し,世界連邦政府を樹立する以外にない」というのがラッセル及びアインシュタインの信念でした。それは,ラッセル=アインシュタイン宣言の精神でもあり,宣言に明確に書かれています。しかし日本では,集団的自衛権を機能・保障させることを目的に,交戦権を認めるように憲法改正をしようとする動きが強まっており,その考え方を国民に浸透させるための愛国心教育や歴史教育が強調され・・・。  http://russell-j.com/index.htm

土曜日, 6月 22, 2013

編集後記(バートランド・ラッセルに関するメルマガn.332)

 http://archive.mag2.com/0000220241/20130622091753000.htm  から転載  今回「R落穂拾い-中級篇」でご紹介した),ハーバート・A・サイモン(著)『学者 人生のモデル』に収められているサイモンのラッセル宛の手紙は、『拝啓バートラ ンド・ラッセル様ー市民との往復書簡集,宗教からセックスまで』(講談社,1970)に も,「プリンキピア・マテマティカ対コンピュータ」と見出しがつけられて収録され ています。  http://russell-j.com/beginner/DBR-INFO.HTM  「プリンキピア・マテマティカ」のなかのある定理をコンピュータ(「ロジック セオリスト」というプログラム=人口知能)は,「その証明(法)をみつけるのに5分 もかかりませんでした。」ということで,サイモンは,これらの事実を,「生徒に知ら せるべきかどうか私にはよくわかりません。」とおどけてみせ,すぐに「あなたはま た,博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではないということを示している我々のこの 論文の証拠に興味をもたれることと思います。」としっかりフォローしています。  これに対しラッセルも,「(あなたの)コンピュータのほうがホワイトヘッドや私よ りも優れているという実例を示してくださり,うれしく思います。」と論文を送って くれたことに感謝しつつ,「コンピュータのほうが生徒よりずっと立派に計算できる ということを彼らが知ったら,生徒たちが計算の仕方を学ぶことをどうして期待でき るでしょうか。」とうまく返しています。  また,あわせてこのロジック・セオリストの成果をラッセル以外の有名な論理学者 に知らせたところ,人工知能(コンピュータ・プログラム)の重要性,将来性,発展性 に想いをいたすことができずに冷たい反応をしめしたことにサイモンは失望し,それ も「博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではない」という格言を支持する別の具体 例であると揶揄しています。  「新しく起こりつつある学問に対する理解力・想像力」は,各分野のトップランナ ーであっても(いやその分野の研究に自信のあるトップランナーであるからこそ?) それほどない場合が多いという,歴史的教訓とも言えるかも知れません。  原子力を研究している様々な科学者がいますが,特に原発関係者は新エネルギーに 対する原発の優位性を過大に評価している(また再生可能エネルギーの研究・開発に は時間がかなりかかると考えて引き続き自分たちの勢力を保とうとする)人が多いよ うに思われます。  ラッセルの言葉(1958年8月8日にBBCでの発言)から一つ。 「科学が教会の迫害を受けた時代の科学者達は寛大で進歩的であった。(これに  対し)現代にあっては、科学者は名誉に包まれ、広く尊敬を受けており、彼ら  は通常'体制擁護'に回りがちである。」     In the days when science was persecuted by the Church, men of science were  liberal and progressive; nowadays, when they ae covered with honours and  universally respected, they tend to be supports of the satus quo.    (松下彰良)

日曜日, 9月 18, 2011

さん・だんぢめ Sand & Gem: ラッセルの幸福論を憶い出した午後

さん・だんぢめ Sand & Gem: ラッセルの幸福論を憶い出した午後: 世の中は3連休らしい。僕らの仕事はカレンダー通りで今日は半ドン。お隣の 「やぶ茂」 さんで昼ご飯を食べてから、午後はオフィスに籠って、しこしこと8月上旬から溜まりに溜まったペーパーワークをする事にした。先送り&「何とかなるでしょ」的逃避行動で無理矢理無視していたけれど、さすがに切...

月曜日, 9月 20, 2010

ラッセル:格言・名言(n.023)



通常の人間性の特徴の中で、'ねたみ'が最も不幸なものである。'ねたみ'深い人は、他人に災いを与えたいと思い、とがめられることなく(罰を受けることなく)できるときにはいつでもそうするだけでなく、'ねたみ'によって、自分自身をも不幸にする。('ねたみ'深い人は自分が持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出す。
Of all the characteristics of ordinary human nature envy is the most unfortunate; not only does the envious person wish to inflict misfortune and do so whenever he can with impunity, but he is also himself rendered unhappy by envy. Instead of deriving pleasure from what he has, he derives pain from what others have.
http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA16-030.HTM

金曜日, 8月 27, 2010

ラッセル格言・名言(n022)



疲労の原因は、非常に多くの場合、'興奮を好むこと'にある。余暇を睡眠に費やせるならば、人間はいつも健康を保てるだろう。働いている時間は退屈なため、自由時間には娯楽の必要を感じる。困ったことに、最も手に入れやすく、表面的に最も魅力的な娯楽は、大部分、神経を消耗する種類のものである。
http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-080.HTM
A very frequent source of fatigue is love of excitement. If a man could spend his leisure in sleep, he would keep fit, but his working hours are dreary, and he feels the need of pleasure during his hours of freedom. The trouble is that the pleasures which are easiest to obtain and most superficially attractive are mostly of a sort to wear out the nerves.

水曜日, 8月 25, 2010

ラッセル格言・名言(n021.)



何らかの災難が迫ってきたときには、起こる可能性のある最悪の事態はどのようなものか、真摯かつ慎重に考えてみるとよい。起こりうる災難を直視した後は、それは結局、それほど恐ろしい災難ではないだろうとみなすに足る、しっかりした理由を見つけるとよい。そのような理由は、常に存在している。なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、宇宙的な重要性を持つものは一つもないからである。しばらく最悪の可能性をしっかり見すえ、真に確信をもって、「いや、結局、それはそれほど重要なことではないだろう」と、自分自身に言いきかせたとき、あなたは自分の心配事がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM
When some misfortune threatens, consider seriously and deliberately what is the very worst that could possibly happen. Having looked this possible misfortune in the face, give yourself sound reasons for thinking that after all it would be no such very terrible disaster. Such reasons always exist, since at the worst nothing that happens to oneself has any cosmic importance. When you have looked for some time steadily at the worst possibility and have said to yourself with real conviction, 'Well, after all, that would not matter so very much', you will find that your worry diminishes to a quite extraordinary extent.

火曜日, 8月 24, 2010

ラッセル格言・名言(n.020)



たとえば、私があるかなり難しい話題について書かなければならないとした場合、最良の方法は、その話題について、非常に強烈に、自分に可能なかぎりの最大級の強度(集中力)をもって数時間ないし数日間考え、その期間の最後に、いわば、この作業を地下で続行せよと命令する、というやり方である。何ケ月か経過してから、その話題に意識的に立ち返ってみると、その作業はすでに終わっているのを発見する。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-050.HTM
I have found, for example, that if I have to write upon some rather difficult topic the best plan is to think about it with very great intensity - the greatest intensity of which I am capable - for a few hours or days, and at the end of that time give orders, so to speak, that the work is to proceed underground. After some months I return consciously to the topic and find that the work has been done.

月曜日, 8月 23, 2010

ラッセル格言・名言(n.019)



情緒的な疲労のやっかいな点は、休息を妨げるということだ。人は疲れれば疲れるほど、仕事をやめることができなくなる。神経衰弱が近づいた徴候の一つは、自分の仕事は非常に重要であり、休暇をとったりすれば種々の災難をもたらすことになる、と思いこむことである。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-040.HTM
The trouble with emotional fatigue is that it interferes with rest. The more tired a man becomes, the more impossible he finds it to stop. One of the symptoms of approaching nervous breakdown is the belief that one's work is terribly important, and that to take a holiday would bring all kinds of disaster.

日曜日, 8月 22, 2010

ラッセル:格言・名言(n.018)



その人の生涯の幸福に終止符を打つにちがいないと思われるような'悩みごと'も、時がたつにつれ色あせてゆき、ついには、その痛切さを思い出すことさえほとんどできなくなる。しかし、さらにこうした自己中心的な考えに加うるに、(各個人の)自我など全然世界の大きな部分ではない、という事実がある。自己を超越するものに思考と希望を集中できる人は、人生の普通の悩みごとの中に、全くのエゴイストには望めない、ある種の安らぎを見いだすことができる。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-030.HTM
Even great sorrows can be survived; troubles which seem as if they must put an end to happiness for life fade with the lapse of time until it becomes almost impossible to remembcr their poignancy. But over and above these self-centred considerations is the fact that one's ego is no very large part of the world. The man who can centre his thoughts and hopes upon something transcending self can find a certain peace in the ordinary troubles of life which is impossible to the pure egoist.

水曜日, 8月 11, 2010

ラッセル格言・名言(n.0017)



きちんとした精神を養うことで、どれほど幸福と効率が増すかは、驚くほどである。きちんとした精神は、ある事柄について24時間不十分に考えるのでなく、考えるべき時に十分に考える。困難な、あるいはやっかいな結論を出さなければならない時には、すべてのデータが集まり次第、その問題について十分に考え抜いた上、決断を下すとよい。決断した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。優柔不断くらい心身を疲れさせるものはないし、不毛なものはない。 (『ラッセル幸福論』第5章「疲労」から)
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA15-020.HTM
It is amazing how much both happiness and efficiency can be increased by the cultivation of an orderly mind, which thinks about a matter adequately at the right time rather than inadequately at all times. When a difficult or worrying decision has to be reached, as soon as all the data are available, give the matter your best thought and make your decision; having made the decision, do not revise it unless some new fact comes to your kuowledge. Nothing is so exhausthg as indecision, and nothing is so futile.

ラッセル格言・名言(n.0016)



自分のライフスタイルを選択できるほど裕福な人々の間において、特に彼らが苦しんでいる耐え難い退屈は、逆説的であるように思われるかもしれないが、退屈への恐れにその原因がある。実りある退屈から逃げることで、別の、より悪い種類の退屈の餌食になってしまう。幸福な生活は、大部分、静かな生活でなければならない。なぜなら、真の喜びは、静かな雰囲気の中でのみ、生きながらえることができるからである。(『ラッセル幸福論』第4章「退屈と興奮」から)  
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-070.HTM
Among those who are rich enough to choose their way of life, the particular brand of unendurable boredom from which they sufier is due, paradoxical as this may seem, to their fear of boredom. In flying from the fructifying kind of boredom, they fall a prey to the other far worse kind. A happy life must be to a great extent a quiet life, for it is only in an atmosphere of quiet that true joy can live.

水曜日, 7月 28, 2010

ラッセル格言・名言(n.0015)



何らかの真面目かつ建設的な目的を持っている青少年は、目的の達成の途上で必要だとわかれば、自主的に多くの退屈に耐えるだろう。だが、建設的な目的は、娯楽と浪費の生活を送っている少年の精神の中では、容易には芽ばえない。なぜなら、そのような場合は、考えがつねに次の快楽に向いており、遠くにある目的達成には向かわないからだ。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM
A boy or young man who has some serious constructive purpose will endure voluntarily a great deal of boredom if he finds that it is necessary by the way. But constructive purposes do not easily form themselves in a boy's mind if he is living a life of distractions and dissipations, for in that case his thoughts will always be directed towards the next pleasure rather than towards the distant achievement.

月曜日, 7月 26, 2010

ラッセル格言・名言(n.0014)



多少とも単調な生活に耐える能力は、幼少期に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。・・・。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-060.HTM
(The capacity to endure a more or less monotonous life is one which should be acquired in childhood. Modern parents are greatly to blame in this respect; they provide their children with far too many passive amusements, such as shows and good things to eat, and they do not realise the importance to a child of having one day like another, except, of course, for somewhat rare occasions.)

日曜日, 7月 25, 2010

備忘録(2010.7.25)



本日西川口駅前のBOOK-OFFで購入したもの(105円×5冊)

1)加藤節雄『素顔のイギリス』(英友社,1989年)
 ・加藤氏は早大政経新聞学科卒のカメラマン(本書は写真中心)
2)養老孟司『涼しい脳味噌』(文春文庫よ-14-1,1995年)
3)養老孟司『続・涼しい脳味噌』(文藝春秋,1995年/こちらは単行本)
4)堺屋太一『「わがまま」のすすめ』(東京書籍,2004年)
5)外山滋比古『ことわざのこころ』(チクマ秀版社,1999年)

ラッセル格言・名言(n.0013)



全体的に言えることは、静かな生活が偉大な人びとの特徴であり、彼らの快楽はそと目には刺激的なものではなかった、ということである。偉大な事業は、粘り強い活動なしには達成されるものではなく、そういう活動(仕事)は、あまりにも注意を奪い、またあまりにも困難であるので、精力を必要とするような娯楽をするためのエネルギーはほとんど残らないのである。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-050.HTM
(Altogether it will be found that a quiet life is characteristic of great men, and that their pleasures have not been of the sort that would look exciting to the outward eye. No great achievement is possible without persistent work, so absorbing and so difficult that little energy is left over for the more strenuous kinds of amusement, ...)

金曜日, 7月 23, 2010

ラッセル格言・名言(n.0012)



過剰に興奮に満ちた生活は、心身を消耗させる生活であり、そこでは、快楽の必須の部分と考えられるようになったスリルを得る(←与える)ために、絶えずより強い刺激が必要となる。過度の興奮に慣れた人は、胡椒(コショウ)を病的にほしがる人に似ており、そのような人は、ついには、ほかの人なら誰でも窒息しそうなほど多量の胡椒でさえ味がわからなくなる。・・・。退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えられるべき事柄の一つである。
 http://russell.cool.ne.jp/beginner/HA14-040.HTM
A life too full of excitement is an exhausting life, in which continually stronger stimuli are needed to give the thrill that has come to be thought an essential part of pleasure. A person accustomed to too much excitement is like a person with a morbid craving for pepper, who comes last to be unable even to taste a quantity of pepper which would cause anyone else to choke. ... A certain power of enduring boredom is therefore essential to a happy life, and is one of the things that ought to be taught to the young