以下は
http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2014.html#br2014-2
からの再録です。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 』(朝日出版社,2011年10月刊.)(2014.1.19)
* 國分功一郎(こくぶん・こういちろう, 1974~ ):早稲田大学政経学部卒,
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学
経済学部准教授で哲学専攻。
本書は2011年度の「紀伊國屋じんぶん大賞」を受賞をしており,よく読まれているようです。私も興味深く読むことができました(1度目は速読し,2度目に精読しました)。ただし。ラッセルの著作(ここでは『幸福論』)に関する國分氏の誤解が少なくないように思われます。『暇と退屈の倫理学』の読者も多いことから,その点だけご紹介及びコメントをしておきたいと思います。
國分氏は,本書で,ハイデガーの思想,特に「退屈論」(「形而上学の根本概念」)を主な材料として評価・批判しながら自分の考えを順々に説き,著者が重要だと着眼した<暇と退屈の'倫理学'>について詳細に述べています。
ハイデッガーの次に引用が多いのは,ラッセル(の著書)からです(特に本書 pp.49-67)。ただし引用は,『幸福論』のみからであり,本書のテーマに直接関係のある,ラッセルの『怠惰への讃歌』からは皆無です。國分氏は,ラッセルの『幸福論』を評価もしていますが,この本の結論から考えれば,重要なのは批判しているところだと思われますので,ここではその部分についてのみとりあげてみます。
國分氏は,ラッセルの『幸福論』(あるいはラッセル思想や人間性)について,誤解や思い込み(なかには,意図しない?曲解)が少なくないように思われます。
まず一つ目の誤解(思い込み?)は,ラッセル『幸福論』に出てくる,幸福になるための条件の一つである「熱意」に関する國分氏のコメントです。(ちなみに,國分氏は,p49.で,ラッセルは「ノーベル平和賞を受賞した大知識人」と書いていますが,これはもちろん「ノーベル文学賞」の勘違いです。)
『暇と退屈の倫理学』の中の該当部分を少し長いですが,抜き出してみます。
(pp.14-30) 序章 「好きなこと」とは何か
(p.14) イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は,一九三〇年に『幸福論』という書物を出版し,そのなかでこんなことを述べた(注:下線は,著者の國分氏が引いたもの)。いまの西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し,東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは,若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから・・・。
ラッセルが言っているのは簡単なことである。
二〇世紀初頭のヨーロッパでは,すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
それに対し,ロシアや東洋諸国では,まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから,若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。だからそこでは若者たちは幸福である。
彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば,そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に,そうしたすばらしい状況にいない人々,打ち込むべき仕事をもたぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。
しかし,何かおかしくないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?
ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは,その社会をよりよいものに,より豊かなものにするためだ。ならば,社会が実際にそうなったのなら,人は喜ばねばならないはずだ。なのに,ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく,より豊かになると,人はやることがなくなって不幸になるというのだ。
もしラッセルの言うことが正しいのなら,これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人は逆に不幸になる。それだったら,社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず,惨めな生活を続けさせておけばいい。なぜと言って,不正をただそうとする営みが実現を見たら,結局人々は不幸になるというのだから。
なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かおかしいのではないか?
そう,ラッセルの述べていることは分からないではない。だが,やはり何かおかしい。そして,これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも,やはりどこかおかしいのである。
ラッセルが主張したように,打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら,この事態はもうどうにもできないことになる。やはり私たちはここで,「何かがおかしい」と思うべきなのだ。
ラッセルは,このようなこと(特に「打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸である」といったようなこと)は言っていないことは,先入観なしに『幸福論』を読めば,ほとんどの人が理解する思われますが,國分氏はなぜこのように読んでしまう,あるいは読めてしまうのでしょうか?(注:國分氏が好きなドゥルーズが大胆な解釈のためには「誤読」が必要だと述べているようですが,國分氏も「誤読」を気にしないためでしょうか?)
次のコメントも同様です。
(p.61) 熱意はおそらく幸福と関連している。だが,ラッセルはそこから「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」という結論に至ってしまった。
実際,ラッセルはこの結論の問題点にも気づいていたようにも思われる。彼は熱意の傾けられる道楽や趣味が,大半の場合は根本的な幸福の源泉でなくて,現実からの逃避になっているとも指摘しているからである。
しかもラッセルは,本物の熱意とは,忘却をもとめない熱意であるとも述べている。彼は,「熱意」と見なされる現象が,単に現実から眼をそらす逃避や忘却のための「熱意」でありうる可能性にきづいているのだ。・・・。
「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」などと,ラッセル言っていません。また,「(ラッセルも)気づいていたようにも思われる」ではなく,最初から「熱意」は幸福になるための条件の「一つ」だと言っています。
ラッセルは,幸福になるための積極的条件として,熱意(Zest)だけではなく,愛情(Affection),家族(The family),仕事(Work),及び(外界に対する)非個人的な興味(Impersonal interests)をあげています。また,必要な努力をした後はどうしても達成できないことはあきらめることができること(Effort and resignation)などをあげています。
(下記のページにラッセル『幸福論』の目次をあげてあります。また,この目次経由で,ラッセル『幸福論』を対訳(松下訳)で全て読むことができますので,参照してみてください。
http://russell-j.com/beginner/KOFUKU.HTM
國分氏は,この思い込みのもと,さらに次のように書いています。
(p.62) したがって,当時のヨーロッパの青年たちを,当時のロシアや日本の青年たちと比べるという(ラッセル)の視点そのものが完全にまちがっていると言わねばならない。これは,現代のそれなりに裕福な日本社会を生きる若者を,発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて,「後者の方が幸せだろう」と言うのに等しい。これはまちがっているどころか,倫理的に問題がある。なぜなら,それは不幸への憧れを生み出すからである。
不幸に憧れてはならない。したがって,不幸への憧れを作り出す幸福論はまちがっている。<暇と退屈の倫理学>の構想はこの点に大いに注意せねばならない。
軽い気持ちで,ラッセルが一つの例としてあげた「ロシアの青年の熱意」を針小棒大にとりあげるのはどうでしょうか? ラッセルは,革命直後の(当時の)ロシアの青年は革命に対する熱意から幸福を感じているという「現象面」をとりあげているだけであり(幸福の「質」について客観的評価をしているわけではなく),それ以上でもそれ以下のものでもありません。(因みに,ラッセルは,1920年夏に,英国労働党代表団に随行し,革命直後のロシアを訪問し,帰国後の1922年に The Pracice and Theory of Bolshevism(邦訳書名:『ロシア共産主義』を執筆・出版し、ロシア共産主義に対するするどい批判を行っています。) 國分氏が,独自の<暇と退屈の倫理学>を構築したいのであれば,枝葉末節の記述を拡大解釈したり,針小棒大にとらないように,(國分氏が自ら言っているように)「大いに注意をせねばならない」のではないでしょうか?
このように「誤読」が多いと,他の著者の著作の引用・紹介も大丈夫だろうかと思われてきます。
もちろん,ラッセルの書き方にも原因はあります。
ラッセルの著書は,専門的な本(Aグループとします。)と一般向けの本(Bグループとします。/ popular books)の2つのグループに分けることができます。後者はさらに,教養のある知的な一般読者向けの本(B1グループ/『哲学入門』や『西洋哲学史』など)と,そういった制限があまりない一般読者向けの本(B2グループ/『幸福論』や『教育論』など)にわけることができます。
ラッセルは,著書の執筆において,「精確」であること(多義的であいまいにならないこと),読者に誤解を生じさせる余地を与えないことを重要と考え,そのためには文章の流麗さを犠牲にすることも気にしませんでした。
しかし,ラッセルは大学等の定職につくことはあまりなく,主に文筆によって,生計の糧を得て,家族を養っていましたので,B2グループの本の執筆においては,精確さを多少犠牲にして,面白おかしいエピソードやたとえ話をかなり挿入しました(注:既存の組織に定職を持つと言いたいことも言えなくなる恐れがあるため,ラッセルは若い時に,可能な限り,文筆業で生計をたてようと決意をします。ラッセルは貴族で財産がいっぱいあったからではありません。)。そのせいもあり,『結婚論』における「黒人の能力」に関する記述やキリスト「的な」愛(Christian love)の強調等々,たまにではありますが,世界の読者に誤解を与えてしまいました。
http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM
ロシア革命前後においてロシアの青年は「熱意」を持つことができて幸福そうだというラッセルがあげた例 --私もあまり良い例だとは思いませんが-- について,,國分氏が,「(ラッセルが)熱意さえあれば幸福であると言っているのは間違いだ」として論じているのはいただけません。ラッセルの『幸福論』を先入観なしで読めば,「熱意」は,ラッセルがあげている,幸福になるための(有力な)条件の,あくまでも「一つ」であり,よほど不注意な読者でなければ,熱意「さえ」あれば幸福になれる,とは読まないと思われます。なぜそのように読んでしまう(読めてしまう)のでしょうか?
それに,ラッセルの『幸福論』の原書のタイトル The Conquest of Happiness(幸福の「克服」=幸福は棚からボタ餅のように,努力しないで落ちてくるものではなく,克己努力して勝ち得るものだという意味合いを含んだタイトル)にあるように,不幸の原因について徹底的に分析し,処方箋を提示した後に初めて幸福になるための積極的な条件についてふれる,という構成及びアプローチの仕方をとっていることを充分理解していないのではないか,と言いたくなります。
ラッセルはこの『幸福論』において,戦争や飢餓状態にあるなど,厳しい外的環境の中にいる人ではなく,一応世間一般の平均的な暮らしができる人々で,日常的な不幸に苦しんでいる人たちが,不幸の原因を知り,克服し,幸福になるための処方箋を書いた,とはっきり書いていることも,よく頭に入れておく必要があります。
それから,次の記述も気になりました。
(p.188) しかし,(ハンナ・アレントによるマルクスのテキストの改ざんについて)アレントを非難しても仕方がない。問題は,「欠乏と外的有用性によって決定される」という文句がアレントの目に入ってこないということだ。もうこうなると,読み間違いの問題ではない。アレントの欲望の問題である。アレントはマルクスのなかに労働廃棄の思想を読み取りたくて仕方ないのである。
國分氏の指摘されるとおりかもしれないですが,しかし,これは「両刃の剣」ではないでしょうか?
即ち,國分氏も,ラッセル『幸福論』の中に,「ラッセルは,熱意さえもてれば人間は幸福になれる」と言っていると「読み取りたくて仕方がなかった」のではないか,と。
本書(『暇と退屈の倫理学』)の結論のところで,國分氏は次のような批判的なコメントも書いています。
(p.343) ラッセルはこんなことを言っている。「教育は以前,多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。ラッセルがこう述べることの前提にあるのは,楽しむためには準備が不可欠だということ,楽しめるようになるには訓練が必要だということである。・・・。中略・・・。
「楽しむためには訓練が必要だ」と言うと,どうもハイカルチャーのことが想像されてしまうきらいがある。実際,ラッセルは食のような楽しみのことは考えていない。彼は上の引用文に付け加えて,訓練を必要とする楽しみとは,すなわち,「てんで教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである」と述べている。(こういうところがラッセルという哲学者の限界である。)
ラッセルは貴族だからという先入観があるのでしょうか?
ラッセルは単純に,誰でもが素朴に楽しめるもの以外に,訓練や努力によって楽しむことができるようになるものがある,また興味を持てるものが多ければ多いほどその人はより幸福になれる「可能性」が増えると言っているにすぎません。「てんで教養のない人たちには縁のない」などという(國分氏の感情のこもった)表現の中に,偏見や思い込みがプンプン感じられます。
あと一つだけにしておきます。
國分氏は,本書の最後で以下のように書いています。ここに書かれている「労働時間の短縮」及び「余暇(時間)の有効活用」は,ラッセル(著)『怠惰への讃歌』における中心的な主張でもあり,本書でひとことも触れられていないのは残念です(國分氏は読んでいないのではないでしょうか!?)。
(p.356) マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的な条件にあずかることができる社会が作られねばならない。そして,物を受け取り,楽しむことが贅沢であるのなら,暇の「王国」を作るための第一日は,贅沢のなかからこそ始まるのだ。
最後に,ラッセル『幸福論』から,関係ありそうなところを少し引用しておきます。
私の目的は,文明国の大半の人びとが苦しんでいる普通の日常的な不幸に対して,一つの治療法を提案することにある。そういった不幸は,はっきりした外的原因がないため,逃れようがないように思われるために,それだけ耐えがたいものである。私の信じるところでは,こうした不幸は,大部分,間違った世界観,間違った倫理,間違った生活習慣によるものであり,人間であれ動物であれ,結局はその幸福のすべてがよっているところの実現可能な事柄に対する,あの自然な熱意と欲望を(そういった不幸は)打ちくだいてしまうのである。こういうことは,個人の力でなんとかなる事柄である。そこで,私は人並みの幸運さえあれば,幸福が達成できるような(生活の)改変を提案しようと思う。
http://russell-j.com/beginner/HA11-020.HTM
私の考えでは,'退屈'は,人間の行動における要因の1つとして,それに値する注意を払われていない(←注目を受けていない)。'退屈'は,有史時代を通じて大きな原動力の一つであったと信ずるが,現代においてもかつて以上にそうである。'退屈'は,人間特有の感情であるように思われる。・・・。 退屈の本質的要素の一つは,現在の状況と,想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。・・・。
'退屈'は,本質的には,事件を望む気持ちのくじかれた状態をいい,事件は必ずしも愉快なものでなくてもよく,'倦怠の犠牲者'にとっては,今日と昨日を区別してくれるような事件であればよい。退屈の反対は,ひと言で言えば,快楽ではなく興奮である。・・・。
http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM
戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた(←経験して知る)。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。
http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM
多少とも単調な生活に耐える能力は,幼少期に獲得されるべきものである。この点で,現代の親たちは大いに責任がある。・・・。
私は,単調さそのものに独自のメリットがあると主張しているわけではない。私はただ,ある種の良いものは,ある程度の単調さのあるところでなければ可能ではない,と言っているにすぎない。・・・。 退屈に耐えられない世代は,小人物の世代,即ち,自然のゆったりした過程から不当に切り離され,生き生きとした衝動が,花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。
http://russell-j.com/beginner/HA14-060.HTM
現代の都市に住む人びとが苦しんでいる特別な種類の退屈は,彼らが「大地」の生から切り離されていることと密接に結びついている。そのことによって,生活は,砂漢の中の(孤独な)巡礼のように,暑く,ほこりっぼく,のどのかわくものになっている。自分のライフスタイルを選択できるほど裕福な人々の間において,特に彼らが苦しんでいる耐え難い退屈は,逆説的であるように思われるかもしれないが,退屈への恐れにその原因がある。実りある退屈から逃げることで,別の,より悪い種類の退屈の餌食になってしまう。幸福な生活は,大部分,静かな生活でなければならない。なぜなら,真の喜びは,静かな雰囲気の中でのみ,生きながらえることができるからである。
http://russell-j.com/beginner/HA14-070.HTM
しかしながら,(一時的な)流行追求や趣味は,多くの場合,多分大部分,根本的な幸福の源泉ではなく,現実からの逃避のための手段になっている。即ち,直視するには大きすぎる苦痛を当面の間忘れるための手段になっている。根本的な幸福は,ほかの何にもまして,人(間)や事物に対する'友好的'な関心とも言うべきものに依存しているのである。
http://russell-j.com/beginner/HA21-060.HTM
'幸福な人'とは,(できるだけ先入観を持たず)客観的に生き,自由な愛情と幅広い興味を持ち,またそういう興味と愛情を通して,今度は逆に,他の多くの人びとの興味と愛情の対象になるという事実を通して,自らの幸福を確保する人である。愛情の受け手になることは,幸福になるための有力な原因である。しかし,'愛情を要求する人'は,'愛情が与えられる人'ではない。愛情を受ける人は,大まかに言えば,愛情を与える人である。しかし,利子付きで金を貸すようなやり方で,愛情を打算で(計算づくで)与えようとすることは無益である。なぜなら,計算づくの愛情は本物ではないし,受け手からも本物とは思われないからである。
http://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM
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