土曜日, 11月 17, 2007
備忘録(2007.11.17)
本日公共図書館で借りたもの
1)ピーター・フランクル『ぼくが地球であった愉快な人たち』(講談社、1997年1月刊)
・本書は、増進会出版社(いわゆるZ会)の会員向け情報誌『Azest』に連載されたものに加筆し、書き下ろしたものを加えて1冊にしたものとのこと
2)『図説・古事記と日本の神々』(学習研究社、2007年7月刊)
3)[Video]『男はつらいよ』(原作・監督=山田洋次/マドンナ=光本幸子/ロケ地:京都、奈良/映画封切日:昭和44年8月27日/松竹ホームビデオ)
・中学の時に(父親と大喧嘩して)家出し、テキヤ家業(露天商)で20年放浪した後(両親と兄は死に、親戚の世話になっているたった一人の妹にあうために)故郷・柴又にもどってくる(寅さん)という不自然な設定。ビデオのジャケットには、「(この映画が放映されるや)寅さん旋風が起こり、以後シリーズ化、国民的ヒーローとして数知れないファンを魅了し続ける記念すべきシリーズ第1作」と書かれているが、40年近く経過した今から見ると、時代の経過による人々の考え方や感性の違いが実感される。寅さんのような人間は身近にいてもらいたくないが、それでも郷愁を感じるところもあり、くだらない映画と一刀両断に切り捨てる気にはなれない、といったところか。
★2007.11.18 追記
『ぼくが地球であった愉快な人たち』
・母国を含め15ケ国(東ドイツ、ポーランド、ソ連、スウェーデン、西ドイツ、バンングラデシュ、台湾、タイ、アメリカ、フランス、スペイン、ポルトガル、スイス、母国ハンガリー、日本)の放浪記。以下、引用
(p.21)ぼくがとくにロン(ロナルド・グラハム米国数学会会長にして、ジャグラー)から学んだのは、ものごとの習得法だった。それは、なんでも全体をいくつかの部分に分けて考えるとうまくいくということだ。こまかい部分の証明を積み重ね、最終的に全体を証明するという数学的で論理的な手法は、いろいろなことに応用できる。
(p.47)第一次大戦後、ハンガリーでも反ユダヤ主義が高まったとき、ユダヤ人はオール5でないと大学に進学してはならないという法律ができた。父の弟は高校時代にたった一つだけ4の科目があったため、進学できなくなった。
(p.49)(ハンガリーが)共産主義時代はみんなあんまり一生懸命に働かなかったから、ニ週間とか三週間の休暇をとることも可能だったが、資本主義経済のもと、働いただけお金になるようになると、みんな休暇もあまりとらなくなった。それにつれて、心にゆとりもなくなった。
(p.149)多くの日本人は、一人でいることがすごく苦手のようだ。仕事や家庭環境の問題などで、一人でいる時間がなかなか持てないという事情もあろうが、ぼくの目には、日本人は一人になる機会を意図的に避けようとする傾向があるように見受けられる。しかし、それでは自分で決すべきこと、たとえば大切な自分の進路についてまで、周囲の意見に流されてしまいやすい。日本人は自分の意見を正面切って主張しないといわれるのも、そんなところに原因があるのではないだろうか。
(p.157)日本では、旅先でもみんながテレビから目を離せないらしい。携帯用のゲーム機を持参して、それに熱中している若者もいる。耳からウォークマンなどのヘッドホンをはずせない者もいる。こうした場面は、ぼくらには実に奇妙な現象に映る。非日常な雰囲気の中での新しい出会い、未知の人との交流のほうがずっと楽しいと思うのだが・・・。
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