日曜日, 9月 23, 2007
備忘録(2007.09.23)
8月中旬、浦和駅近くの古本屋で、525円で購入した(故)小田実の『何でも見てやろう』(講談社文庫)を最近ようやく読み始めている。今読んでも内容は古くない。約450ページあるが、電車のなかで少しずつ読むには手ごろそう。
・参考:小田実「ヨダレと微笑-ラッセル」
★9月29日追記
29日読了。50年近く前に書かれた各国放浪記(ベストセラー)であり、その後世界の状況は激変しているが、興味深く読むことができた。「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。」という(有名な)書き出しで始まる。1日1ドル(当時のレートは1ドル360円)で食事と宿泊をまかなうとの方針を貫き、各国のスラムにも気後れすることなく入り込み、多くの人たちと親しくなり、貴重な体験を無数にして帰国。驚異の好奇心とバイタリティである。物見遊山といって悪ければ、それぞれの国や地域について、うわべだけの理解しかしていないと思われる人間が書いた旅行記とは雲泥の差がある。
1ケ所だけ引用:
(p.138) ・・・。私は何でも見ようと思った。あらためて、私はそう思った。(水道栓をひねっても)水の出ない国も、チョロチョロの国も、お湯のでる国も、出ない国も、私はすべてを見て歩かねばならない。私はそのとき、はじめてはっきりと、アメリカからの帰途、ヨーロッパ、アジアを回って帰国することを決意したと言って良い。・・・。
・目次から(一部):まあ何とかなるやろ(「留学生業」開業)、何でも見てやろう(美術館から共同便所まで)、ゲイ・バーの憂鬱(アメリカ社会の底)、アメリカの匂い(さびしい逃亡者「ビート」)、ヒバチからZENまで(アメリカの「日本ブーム」)、ハーバートの左巻き「日本人」(アメリカ人ばなれのした人たち)、黒と白のあいだ(アメリカ南部での感想)、「資本主義国」U.S.S.R、金髪と白い肌は憧れる(「サムライ」の魅力)、ニセ学生スペイン版、パン屋のデモステネス君、仕立て屋のアリストレス氏(ギリシア無銭旅行)、アクロポリスの丘(ギリシア、そして「西洋」の意味)、腐敗と希望(ピラミッドの下で考える)、にわかヒンズー教徒聖河ガンジスへ行く(ニュー・デリーからベナレスへ)、不可触賤民小田実氏(カルカッタの「街路族」)//
日曜日, 9月 16, 2007
備忘録(2007.09.16)
本日公共図書館で借りたもの
1)四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社、2007年)
・先生とは(故)由良君美氏(慶應大学助教授をへて東大教授)のこと。近いうちに、由良君美氏がラッセル協会の研究発表会で行った講演(「ラッセル、D.H.ロレンス、T.E.ヒュームにおける戦争と平和」)をデジタル化(音声化)したものをラッセルのホームページに掲載する予定。(この本は、北浦和図書館から南浦和図書館へ取り寄せてもらったもの)
2)佐々木高政『(新訂)英文解釈考』(金子書房、1980年刊)・英語の神様?と言われた佐々木高政氏の三部作の1つ。他の2冊とは、『和文英訳の修行』と『英文構成法』。(この本は、埼玉県立久喜図書館から埼玉県立浦和図書館へ取り寄せてもらったもの)この『英文解釈考』には、バートランド・ラッセルの英文が非常に多く(一番多く)使用されており、佐々木高政氏がラッセルの著作をたくさん読んでいることが伺われる。
(2007.09.22 追記)
★四方田犬彦『先生とわたし』
長身かつ端正な顔立ちで、理知的で、趣味の良い背広を優雅に着こなし、パイプ片手にもの静かな口調で語る由良君美教授(東大で英文学、特にイギリス幻想文学を教授)。東大(駒場)は男子学生が多いためそれほどではなかったが、慶應大学(東大に移ってからは慶應大学院の非常勤)では女子学生に圧倒的な人気があった由良君美氏。晩年の数年間は、肌にあわない駒場英語科主任の仕事が影響したためか、アルコール依存症となり、しだいに変調をきたし、いつごろからか癌におかされ、東大定年退職1年にして他界。
(同書からの引用)
(p.46)二人の姉と一人の妹に囲まれ、病弱である上に、いつも同輩の男友達の世界から弾きだされていた君美少年にとって、書物は唯一の心の慰めであったようである。
(p.54)・・・。由良君美も江藤淳を嫌っていて、『漱石とその時代』はイギリス絵画への基本的な無知に基づく、方法論を書いた愚著だと公言していた。
(p.64)由良君美は同僚を含めて他の英文学者を次々と批判し、翻訳書に誤訳があると、歯に衣を着せぬ調子で指摘した。
(p.91)増殖していく書物のせいで、浜田山の自宅が日常生活に支障を来たすまでになったとき、彼はより広い家を求めて転居することをようやく決意した。1977年夏、由良君美は武蔵野市吉祥寺に、美しいバルコニーをもった二階建ての邸宅を購入した。だが運び出すべき書物の分量を計算し間違えたため、引越し作業は困難を極めた。大型のとらっくが二軒の家の間を往復し、新家屋に収容できなかった書物のなかには、そのままベランダに雨晒しの運命を迎えるものさえあった。
(p.134)・・・というのも(1983年に)駒場の英語科主任に選ばれ、その上さまざまな委員会に忙殺され、学外においても煩雑な人間関係に疲れるあまりに、1970年代から開始された飲酒癖に、しだいによりみずからを任せる毎日へと転落してしまうからである。
(p.164)由良君美はその後1986年には、心身の消耗から半年ほどゼミを休講している。また同年には最初の入院もなされている。大酒ゆえの栄養障害と肝臓疾患が原因と推測されるが、精神面におけるストレスを忘れてはなるまい。
(p.179)1990年、61歳を迎えた由良君美は、しだいに咽喉に痛みを感じるようになっていた。5月には風邪かなと思って自転車で近くの医院に行ったが、ただちに虎ノ門病院に行くように勧められた。検査をしてみると、食道癌が発見された。それは奇しくも父哲次の生命を奪ったのと同じ病であった。そのまま彼は入院した。
日曜日, 9月 02, 2007
備忘録(2007.09.02)
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