土曜日, 6月 22, 2013

編集後記(バートランド・ラッセルに関するメルマガn.332)

 http://archive.mag2.com/0000220241/20130622091753000.htm  から転載  今回「R落穂拾い-中級篇」でご紹介した),ハーバート・A・サイモン(著)『学者 人生のモデル』に収められているサイモンのラッセル宛の手紙は、『拝啓バートラ ンド・ラッセル様ー市民との往復書簡集,宗教からセックスまで』(講談社,1970)に も,「プリンキピア・マテマティカ対コンピュータ」と見出しがつけられて収録され ています。  http://russell-j.com/beginner/DBR-INFO.HTM  「プリンキピア・マテマティカ」のなかのある定理をコンピュータ(「ロジック セオリスト」というプログラム=人口知能)は,「その証明(法)をみつけるのに5分 もかかりませんでした。」ということで,サイモンは,これらの事実を,「生徒に知ら せるべきかどうか私にはよくわかりません。」とおどけてみせ,すぐに「あなたはま た,博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではないということを示している我々のこの 論文の証拠に興味をもたれることと思います。」としっかりフォローしています。  これに対しラッセルも,「(あなたの)コンピュータのほうがホワイトヘッドや私よ りも優れているという実例を示してくださり,うれしく思います。」と論文を送って くれたことに感謝しつつ,「コンピュータのほうが生徒よりずっと立派に計算できる ということを彼らが知ったら,生徒たちが計算の仕方を学ぶことをどうして期待でき るでしょうか。」とうまく返しています。  また,あわせてこのロジック・セオリストの成果をラッセル以外の有名な論理学者 に知らせたところ,人工知能(コンピュータ・プログラム)の重要性,将来性,発展性 に想いをいたすことができずに冷たい反応をしめしたことにサイモンは失望し,それ も「博識な人間と賢者とは,必ずしも同一ではない」という格言を支持する別の具体 例であると揶揄しています。  「新しく起こりつつある学問に対する理解力・想像力」は,各分野のトップランナ ーであっても(いやその分野の研究に自信のあるトップランナーであるからこそ?) それほどない場合が多いという,歴史的教訓とも言えるかも知れません。  原子力を研究している様々な科学者がいますが,特に原発関係者は新エネルギーに 対する原発の優位性を過大に評価している(また再生可能エネルギーの研究・開発に は時間がかなりかかると考えて引き続き自分たちの勢力を保とうとする)人が多いよ うに思われます。  ラッセルの言葉(1958年8月8日にBBCでの発言)から一つ。 「科学が教会の迫害を受けた時代の科学者達は寛大で進歩的であった。(これに  対し)現代にあっては、科学者は名誉に包まれ、広く尊敬を受けており、彼ら  は通常'体制擁護'に回りがちである。」     In the days when science was persecuted by the Church, men of science were  liberal and progressive; nowadays, when they ae covered with honours and  universally respected, they tend to be supports of the satus quo.    (松下彰良)